通信教育の単位については「大学通信教育設置基準」に明記されている。
第五条 各授業科目の単位数は、一単位の授業科目を四十五時間の学修を必要とする内容をもつて構成することを標準とし、次の基準により計算するものとする。
一 印刷教材等による授業については、四十五時間の学修を必要とする印刷教材の学修をもつて一単位とする。
二 放送授業については、十五時間の放送授業をもつて一単位とする。
三 面接授業及びメディアを利用して行う授業については、大学設置基準第二十一条第二項 各号の定めるところによる
(大学設置基準第二十一条第二項 各号とは、45時間で1単位云々を定めている条文)
面接授業(メディアを使う場合を含む)は、通学制と同じ基準で、放送授業も15時間だが、45時間の学習が前提なので、予習復習に30時間が必要となる。テキスト履修とも言われる、印刷教材による通信添削による場合も、45時間の学習が求められている。つまり、通信教育といえども1単位に45時間の勉強と言う原則は生きている。
となると、フルタイムで1日8時間以上働いている人が、通信教育で4年間で大学を卒業するには、仕事と勉強以外の時間は8時間しか残らないので、かなり寝不足になる。夏休みなどにまとめて勉強することも可能とはいえ、かなり難しいことに変わりない。
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大学設置基準によると、45時間の学習で1単位というのが日本の大学の基準ということなのだが、あくまでも授業は15時間で、あとの30時間は学生が自主的に行う予習や復習の時間で、これを含めて45時間としているのだが、本当に学生はそんなに勉強しているのだろうか。講義時間の倍である。1日に5時間の講義を受けたら10時間も自宅で勉強しなければならないことになる。
1年間は52週間あるが、お盆や正月、それに夏休みもあるので、学校では1年を35週間で計算する。これを元に計算すると、次のようになる。
35週間×40時間(1週間の勉強時間)÷45時間(1単位の勉強時間)×4年(修業年限)=124
みごと、卒業に必要な単位数に一致する。
ここで問題になるのが、土日を除いて1日8時間、週に40時間も勉強しているかである。理系で連日深夜まで実験に明け暮れている学生なら、問題ないだろうが、アルバイトやデートに忙しい学生はどうだろう。ここが単位の実質化として問題にされている点だ。法律の建前や世界的な標準に比べて、日本の学生が勉強していない。日本の1単位は価値がないと批判される。学習を時間数で測るのはどうかと思うが、現実の法体系はそうなっている。これを時間数ではなく、学習の成果で測ろうと言うのが、大学卒業資格試験ということになる。試験に合格すれば、勉強時間は問わないとなると、1年生で卒業資格を得るような秀才も出てくる。最低限の時間に加えて試験というのが現実的な選択になるのだろう。いずれにせよ、単位の実質化を図り、世界的な評価に耐えるようにすることが日本の大学に求められていることは間違いない。
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大学で卒業に必要な要件は、大学設置基準に定められているのだが、大まかに言えば4年以上の在学と124単位以上の修得となっている。この2つの規程がかなりアバウトで、いろいろな問題を抱えている。特に単位については国際的な評価にも影響を与えている。まず、1単位の定義だが、これも大学設置基準に定められている。長くなるが全文を引用すると次の通りだ。
第二十一条 各授業科目の単位数は、大学において定めるものとする。
2 前項の単位数を定めるに当たつては、一単位の授業科目を四十五時間の学修を必要とする内容をもつて構成することを標準とし、授業の方法に応じ、当該授業による教育効果、授業時間外に必要な学修等を考慮して、次の基準により単位数を計算するものとする。
一 講義及び演習については、十五時間から三十時間までの範囲で大学が定める時間の授業をもつて一単位とする。
二 実験、実習及び実技については、三十時間から四十五時間までの範囲で大学が定める時間の授業をもつて一単位とする。ただし、芸術等の分野における個人指導による実技の授業については、大学が定める時間の授業をもつて一単位とすることができる。
3 前項の規定にかかわらず、卒業論文、卒業研究、卒業制作等の授業科目については、これらの学修の成果を評価して単位を授与することが適切と認められる場合には、これらに必要な学修等を考慮して、単位数を定めることができる。
簡単に解説すると、講義・演習は15時間から30時間の授業を行い、それに伴う予習や復習など、学生が自主的に行う学習を加えて、合計45時間の学習で1単位ということになる。実験、実習、実技は自宅で行うことが難しいだろうから、大学で30時間から45時間行って、45時間に足りない分は、学生が自主的に学習する。いずれにせよ、45時間分で1単位ということに変わりはない。ただし、卒論関係だけは例外ということだ。
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神奈川県が禁煙条例制定に向けたパブリックコメント(一般の意見を求める制度)の募集を始めた。県内の不特定多数(2人以上)が集まる場所を全面的に禁煙にし、罰則も設けるというものだ。全国初の試みとして歓迎したい。
マリファナが法律違反でタバコが合法というのが理解できない。有害性や依存性は50歩100歩と思うのだが。少なくとも、法律で全国一律にプライベート空間以外は禁煙とし、タバコ税を1000円くらいにして欲しいところだ。
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卒業と学位の分離という意味では、学位規則によると、学士は原則として大学を卒業した人に授与されるのに対して、修士は「大学院の修士課程を修了した者」、博士は「大学院の博士課程を修了した者」および「大学院の行う博士論文の審査に合格し、かつ、大学院の博士課程を修了した者と同等以上の学力を有することを確認された者」に授与することができる。つまり、博士はすでに修了(大学院では卒業と言わずに修了と言う)と学位が分離している。以前は、いくら博士課程を修了しても論文で合格しないと博士が取得できず、40歳や50歳にならないと博士になれないという事態も珍しくなかった。逆に、論文さえ合格すれば博士が取得できることから、代筆による博士取得が問題なることもあった。代筆と言っても、すべてを第3者が書くというのではなく、指導教員がどこまで指導するかという問題である。指導教員も学生が下手な論文を提出すると面子に関わるので、それなりの指導をする。しかし、これが学生の実力なのか、指導教員の論文なのかが分からないと言うことも起こる。もちろん、複数の教員が審査に当たるが、その分野の専門家が指導教員しかいないということも多い。そうなると、指導教員次第で合否が決まると言う、公正性に疑問の生じる事態となった。そこで、論文だけで博士取得ができる論文博士ではなく、大学院の課程をしっかり勉強(大学院的には研究だろうが)すれば、博士を認める課程博士の充実を図ろうということなってきた。つまり、修了=学位にしようという動きである。これは、私が主張している卒業と学位の分離と逆行する。しかし、完全に修了と学位が一致するわけではなく、過度の分離が是正されるだけで、学部レベルの分離が進むことで、学部も大学院も適度な分離状態で落ち着くのではないだろうか。
ただし、修士・博士については、大学進学率の上昇に伴い、大学院進学率も上昇し、かつての大学教員の養成という役割から、一般社会へ出る手前という位置づけに変化するだろう。その場合、論文の必要性が問われる。すでに、学部において卒業論文が必須でなくなったように、大学院においても、論文は大学教員を目指す人にだけ課せられるようになるかも知れない。その場合、博士とは別に、論文に合格した人には大学教員免許を授与した方がすっきりするのではないだろうか。
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学位が大学卒業していなくても大学以外の機関で取得できるとなると、大学卒業と学位が分離してくる可能性が出てくる。加えて、大学卒業資格に統一試験導入の動きが加わると、学位は取得できるが、卒業は出来ないとか、逆に、卒業は出来たか学位は授与されないという事態も考えられる。ここに、学部教育の内容を考えるヒントがあるかも知れない。現在では、新しい学部名が増えるたびに学位の種類も増えている。あまりにも学位の種類が増えすぎたので整理しようと言う動きがある。しかも、統一試験にあわせて、学部の内容がリベラル・アーツ化すれば、学部の特色が出せない。そこで、学位は一般的なものにあわせて取得させた上で、独自の教育を実施して、それをクリアした場合だけ卒業を認めるようなこともあり得る。学位より卒業を上位に位置づけることで、大学のステータスを上げようと言う作戦だ。当然、逆も出てくる。卒業をさせたものの、統一試験に合格できず、学位も取得できない学生が多いという大学も出てくるかも知れない。前者と後者では、学部のカリキュラムも大きく違ってくることになる。
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学位授与機構なるものが出来たのは、各省庁が設置している大学校が大学でないという矛盾の解消からだろう。各省庁はそれぞれの機関で働く専門家を育成する必要があった。そこで大学校なるものを作ったのだろうが、大学とすると文部科学省の所轄になってしまう。それを嫌ったのだろう。しかし、学位が出せないことの弊害から、学位授与機構を作って、そちらで学位を出すようにした、というのが真相だろうと推測している。こんなところに行政の縦割りの弊害が出ている。問題がそれだけに止まっていればよかったのだが、専門学校修了者にも学位の授与を行っている。専門学校の場合、「専門士」という称号の発行を告示で可能としている。これは称号であって学位ではないとう見解で、法律ではなく告示で定めていることから別の扱いなのは明らかだが、紛らわしいのは間違いない。
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紅白に出たような超人気アイドルが八洲学園大学国際高等学校に来たらしい。学校から沖縄の美しい海が一望でき、全面芝生のきれいな学校なので、少しでも沖縄の振興に役立てばと、映画のロケなどに解放しているのだが、そのアイドルもDVDと写真集の撮影にやってきたとのこと。名前を明かせないのが残念だが・・・
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学部教育を考えると、「学位とは」という疑問にぶつかる。学位には学部レベルの「学士」、大学院レベルの「修士」「博士」があるが、このこと自体、ほとんど知られていない。大学を卒業している方でも、自分が「学士」を持っていることを意識することはないと思われる。そういう自分自身も大学を設置することになるまで「学位」というものの存在すら知らなかった。大学を卒業していることは自覚としてあっても、学位に対する意識はない。しかし、大学は「卒業証書」を授与するのではなく、「学位記」を授与する機関となっている。もちろん、卒業と言う概念がないわけではないが、卒業の要件を満たした人に「学位記」を授与するという考え方になっている。と書くとますます、卒業と学位の違いが混乱してくる。日本の最初の大学である帝国大学について定めた「帝国大学令」にすでに、卒業した者に学位を授与するとあるので、卒業したことの証明が学位と思えばよい。これは日本独自の仕組みではなく、ヨーロッパの大学制度の影響によるものだ。ところが、さらにややこしいことに、日本には「学位授与機構」というものがあって、大学でないにも関わらず「学位」を授与している。中学でも高校でも、実際にその学校に入学し、教育を受けて一定の成績を修めないと「卒業」はできない。中学卒業程度認定試験や高等学校卒業程度認定試験に合格することで、中卒や高卒と同等の資格を得ることはできるが、「卒業」とは違う。しかし、学位授与機構から授与された「学位」は、大学を卒業して授与される「学位」とまったく同じものなのだ。つまり、「学位」を発効できるというのが唯一、大学の特権であったはずが、いまや特権でなくなってしまっている。この学位授与機構に大学以外の専門学校や各省庁が設置している大学校(防衛大学校や気象大学校など)での学習成果を持ち込んで学位を得ることができる。ここにも、「大学の行方」を考えるヒントがあるような気がする。
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八洲学園大学でも履修証明という制度がスタートしている。一定の学習の成果を大学が証明するという制度で、法律(学校教育法)で正式に位置づけられてスタートした制度だ。八洲学園大学の制度については、こちらに詳しく載っているので、ご覧いただくとして、実はこの制度も大学の行方に少なからず影響を与えると思っている。
というのは、学部教育の内容がリベラル・アーツ色が強くなるにしたがって、学部の特色を出すのが難しくなる。そこで、この履修証明制度を使って、特色付けをするようになる。学部は教養学部とし、いろいろな科目を網羅的に配置した上で、その科目をいくつかまとめて履修証明を発行する。学生は、欲しい履修証明にあわせて科目を選択するというわけだ。その方が、名前を聞いただけでは内容が想像付かないような学部名の学士(学士名は学部名を後ろにつけて区別する)より、内容を具体的に表した履修証明をいくつか取得して卒業する方が、社会で評価される。学士は原則として4年で1つしか取れないが、履修証明は、がんばれがいくつでも取得できる。単に科目の単位を修得したのと違って、必要な知識がまとまっているので、企業も評価しやすい。学習する側も、4年で124単位というより、120時間の受講の方が、短期間で成果が得られるので目標としやすい。
と、これだけならいいこと尽くめなのだが、ここで、ふと学部のカリキュラムとは何?という疑問が出てくる。これについては明日以降に。
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学部教育の内容について考えるときに避けて通れないのが、研究との関係である。大学とは教育と研究が両輪のように言われるが、アメリカの大学を見ていると、いずれかに特化した大学も両方を行っている大学も存在する。学問として確立され、進歩の度合いが少ないような分野であれば、新たに研究成果を教育に反映することは難しいかも知れない。逆に新しい学問分野では、研究なしでは教えることもなくってしまう。ところが、大学卒業試験のようなものを意識した科目となると、新たな研究成果が出題されるとは考えにくいため研究を伴わない教育に特化した大学が増えることが予想される。もちろん、逆に研究に特化した大学も出てくる。しかし、ここで原点に戻って「大学とは」を考えたときに、研究に基づかない教育が大学の教育と言えるかという問題に行き当たる。大学でなくても、人に何かを伝えるときに、自らの経験と他人からの伝聞では、その説得力に雲泥の差がある。説得力は、授業においては「おもしろい授業」「良い授業」となる。自ら研究し、その経験による言葉は力を持ち、学生の心に響く。しかし、他人の研究成果を説得力を持って伝えるとなると、これは教師ではなく、俳優の領域の力が必要となる。他人が書いた台本を自ら演出し、演じることになるからだ。この力を磨いて教師を続けるか、研究成果に基づいて自らの言葉で伝えて教師を続けるかの選択を迫られる。もちろん、いずれも教師として成り立つのだろうが、前者の場合、予備校や高校、専門学校の教師に一日の長がある。大学が大学としての評価に耐えるには、研究なしでは難しいかも知れない。それは研究成果を社会に生かすと言う意味ではなく、教育の質の担保としてである。それが大学と他の高等教育機関とを区別している唯一の点ではないだろうか。
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学部教育の質の担保は、国際競争が激しくなるにしたがって、より重要となる。また、留学生の確保という観点からも質の向上は欠かせない。進学率が上がるということは、入学段階の学力の低下は避けて通れない。しかし、大学も今までのように、やる気のある学生だけを相手にするのではなく、すべての学生の学習意欲を喚起するような努力をするようになってきた。また、学問的興味を持続させないと、自らの大学院へ誘導できなくなる。大学は学部だけでなく大学院も含めて経営を考えるようになるだろうし、すでに一部の国立大学(国立大学法人だが、ここでは国立と呼ぶ)では、学部より大学院の学生数が多くなっている。そのため、大学は大学院に入るための勉強をするという位置づけになる。大学院自体は定員割れの状態のため、競争的な入試というより、大学院レベルの学習についていけるだけの基礎学力があるかが問題となる。
大学院のための授業、留学生をにらんで国際的な学力をつけるための授業となると、その学力を客観的に測定する仕組みも必要となる。すでに検討が始まっているようだが、大学卒業資格試験のようなテストが導入されるかも知れない。そうなると、当然、各大学はその試験にあわせたカリキュラムを組み、試験対策を行うようになろう。ということは、専門的な科目というより、各大学共通の科目に重点が置かれる。かつての一般教養のような内容というより、専門的な科目を網羅しつつも、内容的には基礎的なものとなるのではないだろうか。本題とはそれるかもしれないが、このテストの導入自体は悪くないが、文科省やその影響下にある団体が実施したのでは、学部教育の均質化を招くだけで、質の向上には役立たない。それどころか、大学の独自性を削ぐだけだろう。実施するのであれば、大学自ら実施するべきである。
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大学教育がいまの高校レベルになると言っても、その背景が日本の高齢化社会では、世界的には通用しない。日本の学位は高校の卒業証書程度という評価しか受けないのでは、世界で相手にされなくなる。国際的に通用する最低限の教育を行う必要がある。しかし、幸いなことに、今の若者は非常にまじめで勉強熱心だ。元気がない、マニュアル人間だとあまり評判は芳しくないが、昔より勉強しているのは間違いない。加えて、社会人入学が増えることで、彼らの真剣な態度が18歳学生へもよい刺激となる。内容はリベラル・アーツ的になるとしても、それほど質の低下を懸念する必要はないかも知れない。ただし、勉強はまじめ行ったとしても、そこにいる18歳学生はかつての18歳ではない。はるかに子どもで、いまの15歳と思って接する必要があるかも知れない。それだけに、手取り足取り指導するのはもちろん、各自に担任をつけて精神的なサポートも十分に行う必要があろう。すでに、その傾向が現れ、専門学校や高校並みの手厚いフォローを行っているところが出てきている。
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大学進学率がいまの高校進学率程度まで上昇するという前提に立てば、学部教育の内容がいまの高校程度になるということは容易に想像がつく。もちろん、レベルでも高校程度になる可能性もあるだろうが、それより内容が高校の普通科のように一般教養的なものになるのではないだろうか?一般教養と書けば少し語弊があるので、リベラル・アーツが主流となると書いた方が適切かもしれない。学部段階でリベラル・アーツを学び、大学院で専門教育を受けるというイメージである。これは、なんのことはない、欧米の一般的な形である。もちろん、物事には例外がある。若い段階から取り組んだ方が優れた成果を残せる分野はリベラル・アーツ段階を経由する必要はない。高校や大学をショートカットして大学院に進学すれば良い。
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進学率の話題ばかりだと飽きてくるので、進学率については今日で最終回。90%以上になると書きつつも、さすがにそこまでは、とも思ってしまう。高校の進学率の上昇と同じ軌跡をたどるとすれば、50%を超えたあたりから伸びだし、90%を超えたところで止まることになる。まさしく大学進学率がいま50%なので、ここからの変化が重要ということになろう。50%超え、つまり半数以上の人が大学へ進学するとなると、日本人の国民性から、「みんなが行くなら私も」ということで、急速に大学へ意識が向かうのは間違いない。あとは、それを大学側が受け入れる体制が整っているのかだけの問題だろう。体制の中には、奨学金の充実など経済的な支援も重要となる。いくら国公立と言っても、公立高校の学費とでは雲泥の差がある。行きたくても行けないのでは進学率は上がらない。今後も、入学定員は増加していくだろうから、学費を下げるか奨学金を充実すれば進学率は上がるだろう。ただし、いくら学費が無料になっても、働かないと生活を維持できないという家庭もあるだろう。そういう場合は、働きながら学べる通信制がある。通学制、通信制をあわせると進学率が90%は現実味を帯びてくる。
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高等教育機関への進学率が90%を超えるなどと言っても現実離れしていると感じるかも知れない。そこで、諸外国の場合はどうだろうか。OECDの資料が参考になる。少し古くなるが、2003年のデータを文部科学省が翻訳したのがこちら。
最新版(2007年に発表した2005年のデータ)は、英語だがこちらにある。Table C2.4のシートにあるのがそれだ。
純進学率(初めて入学した人÷入学相当年齢の人口)と総進学率(入学者数÷入学相当年齢の人口)が混在しているので一概には比較できないし、各国の事情が分からないが、100%を超えている国もある。韓国は2003年では短大・4大をあわせると101%で、ニュージーランドは134%である。また、2005年の方のChart C2.1は4大の各国の進学率を過去10年の変化と比べて見ることができる。これを見ると、日本は一貫して進学率は伸びているものの、他国に比べてまだまだ延びる余地が大きいことが分かる。短大、専門学校を加えた総進学率が90%を超えても、なんら不思議ではない。
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大学を含めた高等教育機関への進学率が90数パーセントまで上昇すると見るもう1つの理由は、生涯学習社会の到来である。そもそも大学進学率とは、18歳人口を分母に計算するが、大学へ入学するのは18歳だけとは限らない。また、どこまでを高等教育機関に含めるか、パートタイムとフルタイムの学生の区分などによって進学率の計算は違ってくる。出生率が下がり続けているのだから、18歳人口も減少する。浪人生がいれば、翌年の少ない18歳を分母に進学率を計算することになるのだから、それだけでも、少し進学率が上がる。加えて、八洲学園大学のような大学が増えてくれば、すでに大学に在籍経験のある社会人が大学に入学することになるが、これらの社会人学生も進学率の計算に含まれる。しかも、彼らは複数の大学を掛け持ちすることさえある。今後は、18歳の学生も大学と専門学校という形のダブルスクールだけではなく、2つ以上の大学に在籍することもあり得る。かつての通学のみの形態では考えられなかったが、現在では、eラーニングにより、どこでも大学の授業を受けることができる。働きながら大学を卒業できるのだから、大学に行きながら、別の大学で学び、同時に2つの学位を得ることは十分可能だ。こういった学び方が普及すれば、進学率が100%を超えてもなんら不思議ではない。進学率を18歳人口を分母に、現役進学者数を分子に計算すれば、ある意味正確な数字を出すことも可能だが、「大学の行方」というテーマを考える場合は、分子は広く捉える必要がある。18歳以外の学生が増えることで大学像は違ってくるのだから。
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テレビでも報道されていたので、周知の記事かと思うが、高校を経営している立場で、自分ならどうするかを考えてみた。結論から言えば、式には出席してもらって、入学許可は学費納入までは出さない。入学式は大して重要とは思わないが、出席するチャンスは一度しかないのだから、出席を認めないと取り返しはつかない。式への出席はあくまでも形式の問題なので、そこでたとえ名前を呼んだとしても入学を許可したことにはならないのではないだろうか? 入学を許可せずに、代わりに他の生徒を入学させるというのであれば、出席を認めないのも理解できるが、出席させないことで、結果的に入学意欲をなくし、欠員のまま3年経過するのであれば、入学し学費を払ってもらえるようになる可能性の高い方を選択するのが経営者の立場かも知れない。
今回の件は、学費を納入し、無事入学を許可されたとのことだが、入学式へ出席させなかったことが、学費の納入を促したのか、それに関係なく学費を納めるつもりがあったのか、その部分の予測が報道だけでは測りかねるが、最終的な判断のより所はそこになるのだろう。これは給食費の未納問題とは明らかに違う。入学式に出たり、授業を受けただけでは学費の対価に見合ってる訳ではない。
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大学進学率の続き。大学を含めた高等教育機関への進学率が90%以上と予測したのは、現在の高校進学率(97.7%)からだ。なぜなら、平均寿命が延びたからといって、人間がそれだけ利口になるわけではないからだ。寿命が延びたのは、ここ100年足らずのことで、その間に人間の脳が進化したとは思えない。つまり、生涯の間に覚えることや得る知識にそれほどの変化はない。何を言いたいかといえば、これまで60年でやってきたことを80年でやるようになったというだけなのだ。同じ15歳でも、かつての15歳に比べて幼稚になっているとしても、それは60歳で死ぬのと80歳で死ぬのを比べての話で、余命から見れば、決して幼稚になっているわけではない。ということは、社会に出て働き始める年齢も、かつの中卒から高卒、そして現在の大卒が一般的となっていく。つまり、かつての高卒がいまの大卒程度となり、大学への進学率が、高校への進学率90数パーセントに近づいていくことになる。
社会が複雑になり、社会生活を営むために覚えなければいけないことが多くなり、それらの大半を学校で学ぶしかないという状況もあるかも知れない。現在の高校進学率がかつての中学進学率並に、現在の大学進学率がかつての高校進学率並になったことを思えば、大学進学率が現在の高校進学率に近づき、大学院進学率が現在の大学進学率程度になると考えてもなんら不思議ではない。もちろん、その場合、大学の学部教育は、かつて高校教育程度と考える必要があるが、そのことはまた、後日に。
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大学がどうなっていくかを考える第1弾。まず、大学進学率がどうなるか予想してみたい。現在の大学進学率は50%強、専門学校などを含めると70%強と思うが、どれくらいまで上昇するだろうか? 専門学校なども含めた進学率は90数パーセントと予想する。その理由はいくつかあるが、今日はそのうちの1つ、平均寿命との関係について(数字の根拠は明日以降)。
というのは、人口を労働力という経済的な観点からみると、平均寿命が延びれば、進学率を上げないと大問題を起すからである。平均寿命の延びにしたがって、定年も延長されてきた。今後、さらに延長されるかも知れない。延長されなくても、定年後も元気でお金に困っていない人が、低賃金かボランティアで熟練した労働者として供給されることになる。その分、若い人が市場から締め出されることになる。その若い人の受け皿として大学が機能するわけだ。若い人が労働力市場に登場する年齢を引き上げない限り、市場は過剰労働力に悩まされる。熟練した人を追い出すより、若い人をさらに教育してから供給した方が良いと考えるのが自然ではないだろうか。もちろん、労働力人口の延び以上に景気がよければこんな心配は不要なのだが、景気や失業率の変動に進学率が連動しているのは確かなようだ。景気が悪く、就職が難しければ大学にでも行っておくかとなるからだ。
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中教審が「学士課程教育の構築に向けて」という報告をまとめた。この報告についてはコメントを控えるが、これを機会に、「大学とは」を少しブログで書いていくことにした。八洲学園大学も開学5年目に入り、「開学日記」というタイトルも相応しくなくなってきたところなので、初心に戻って考えてみたい。ということで、本日は予告のみです。
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八洲学園大学国際高等学校のホームページに沖縄在住の方のための専用ページができた。もともと沖縄の学校なのだが、全国から入学されるので、これまでは特に地域の特性を考慮せずに作っていたが、沖縄の方と本土の方では、八洲学園大学国際高等学校の特徴も違ってくる。本土の人には「沖縄でスクーリング」というのが、特徴でメリットでもあるのだが、沖縄の人にはメリットでもなんでもない。入学生の3割ほどが沖縄の方なので、専用のパンフレットを作ることにした。そのパンフにあわせてホームページも専用ページを用意してみた。これで、沖縄の人にも八洲学園大学国際高等学校の特徴が伝わればよいのだが。
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八洲学園大学の通常スクーリングの履修登録が明日で締め切りとなる。登録状況を見てみると、1人や2人しか登録していない科目がいくつかある。人数が少なくても開講することは差し支えないのだが、ディスカッションで授業をすすめたり、毎回、受講生に発表を求めるような科目の場合、あまり人数が少ないと授業が成り立たない。人数が少ないので、密度の濃い指導が受けられると歓迎する人もいるかも知れないが、他の学生の意見が聞けないと刺激が少なく、面白味に欠ける。大学の授業とは教員と学生の相互作用で作り上げるものなので、適度な人数が必要な場合が多い。しかし、履修登録の申込者数を見る仕組みを用意できていないので、人数に偏りがあっても途中で修正が利かない。今後は、申込者数をリアルタイムで表示するような仕組みを構築する必要がありそうだ。
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昨年度より実験を続けてきた八洲学園大学の再配信授業が今年度から、本格実施に移行した。八洲学園大学のスクーリングは、ライブでネット配信している。ライブだからこそ、自宅からでも授業に参加し、教員やクラスメートとディスカッションを通じて理解を深めることができる。また、通信教育という孤独感からも開放される。とはいえ、仕事などの都合でどうしてもライブで受講できないこともある。もちろん、ライブの授業は収録され、いつでも見ることができるようにはなっている。ただし、このオンデマンドは復習用であり、これを視聴しても出席とはならなかった。8割以上、出席しないと原則として単位を修得できないため、仕事が不規則な方などから単位の修得が難しいとの声があった。そこで、新たにスタートしたのがこの再配信制度。当日中に限りライブ配信の授業を視聴し、レポートを提出したり、掲示板を通じディスカッションに参加することで出席と扱うというものだ。昨年度の実験の結果、再配信とライブ配信による受講生の学習成果に有意な差は認められなかった。そのため、今年度から、再配信になじまないいくつかの科目を除いて、すべての科目を再配信することになった。とはいえ、八洲学園大学のeラーニングのすばらしさはライブ配信なので、できるだけライブで受講して欲しい。一度でもライブで受講した方は、その魅力を実感してもらっているとは思うのだが。
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遅ればせながら4月から八洲学園大学が全館禁煙になった。本来なら開学時から禁煙にするべきだったのだろうが、喫煙場所を設ければ支障ないと考えて、何箇所かの喫煙場所に限って喫煙を認めた。しかし、ビルの空調は全館を循環しており、1箇所の煙がすべての部屋にも及ぶ。そのため多くの苦情をいただくことになってしまった。そこで、学長交代のタイミングにあわせて全館禁煙となった。全館禁煙といっても、すでにタバコ依存症の人がタバコを止めるまでの猶予も必要ということで、屋上に1箇所だけ喫煙できる場所を残してある。
しかし、ガソリンに暫定税率をかけるくらいなら、タバコに1000円くらいの税金を掛けないと、とても文明国には思えない。現在のタバコの税金が200円弱で、税収とすれば2兆円ほどとか。タバコ税を1000円にすれば、ガソリンの暫定を廃止してもおつりが来る。といっても、タバコにかかる経費(タバコによる健康被害や火災など)を考えたら、まだまだ赤字のようだが。
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今日は、八洲学園大学の入学式だった。ネットで参加したが、在学生からの新入生に向けたメッセージ披露が良かった。在学生の生の声が新入生を安心させ、勇気付けたのではないだろうか。これだけ在学生が新入生を温かく迎える大学は珍しいかも知れない。卒業式といい、入学式といい、ネットの大学だからこそ、コミュニケーションは量より質を大切にしているのかも知れない。
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近所のスタンドも暫定税率撤廃分を織り込んできた。一番安いセルフ店は1日から値下げしていた。値下げは簡単だが、値上げは難しい。おそらく、衆議院で再可決は政権交代を意味するだろう。民主はそれを見込んで、たとえ1日でも期限切れを実現したかったのかも知れない。しかし、こうなったら一般財源化を前提としても元の税率に戻すのは難しくなった。化石資源を使っているのだから高率の税金は掛けたほうが良い。そういう意味では、絶好のチャンスを逃したことになる。自民も、1ヶ月早く一般財源化を打ち出していれば貴重な財源を失わなくて済んだのだが。
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八洲学園大学の学長が代わって、最初の教授会が行われた。新学長から、これから実施するさまざまな改革について大まかな方針が示された。今後、改革会議を設置して具体案を検討することになる。当然、改革はよくするために行うので、八洲学園大学は良くなっていくはずだ。少なくとも、改革しようという気概があれば活気が出る。それだけでも良い方向に向かう。川の流れは止めてはいけないのだ。
大学を設置する場合、設置申請書に4年間の計画を明記して、認可を受ける。認可を受けると、計画通りの実施を求められる。十分に検討して作成した計画であっても、4年経過すればさまざまな問題点が見えてくるが、その4年の間は簡単に計画の変更ができなかった。これからは、その4年間の停滞を取り返すように、急速に改革が進むのではないだろうか。
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4月1日ということで、辞令の交付を行った。八洲学園大学では、学長、副学長、事務局長、事務局次長に辞令が交付されたほか、新たに教授、准教授に任命された教員にも辞令が渡された。また、八洲学園大学国際高等学校の校長も交代となるため、辞令が交付された。
各校とも、新しい体制で、飛躍の年としたい。
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