ところで、大学として認可を受けたり、第3者評価で合格をもらうのに必要な要素とは何だろう。言い換えれば大学を作るのには何が必要か。これが今後、どのように変化するかを考えることは大学の行方を占う重要な要素となる。
念のためおさらい。まずは、大学設置基準。これは大学として最低限の基準となっている。そこには、情報公開、組織、教員資格、教育課程、授業時間数、卒業要件、校地・校舎・設備、事務組織などについて書かれている。第3者評価の例として、大学基準協会の評価基準では、理念・目的、教育研究組織、教育内容・方法、学生の受け入れ、学生生活、研究環境、社会貢献、教員組織、事務組織、施設・設備、図書・電子媒体等、管理運営、財務、点検・評価、情報公開・説明責任となっている。基準協会は、設置基準を整理し、社会貢献や説明責任を加えたものになっている。これに、巷で話題になっている内部統制を加えると、すべてを網羅しているといっても良いかも知れない。
自己点検は、第3者評価を受けることを前提に行うので、この第3者評価の項目にあわせて実施することになる。これらの評価項目に明確な基準があるのは、大学設置基準で数値が明記されている、教員数や校地・校舎の面積程度で、あとは、あくまでも、自らが建学の精神の実現に向けて目標を設定し、それが実現されているかを評価するものである。したがって、大学を並べて比較することは困難である。大学ごとに重点を置く項目も違うであろうし、評価の方法も違ってくる。
しかし、検証できない目標は目標とはなり得ないのだから、今後、これらの評価項目を数値で評価できるように迫られるのではないだろうか。もちろん、単純な数字で比較しても意味がない。例えば、図書の数で考えてみても、単に多ければよいというわけではない。学生一人あたりの冊数、専門書の割合、貸し出し数なども見る必要がある。また、最近では、電子媒体の利用も多いので、本の数だけを見ても実態は分からない。学問分野によって図書館の位置づけも違ってくるだろう。しかし、これは入学検討者などが判断すればよいことで、本の多い大学が好きという人もいれば、本はなくてもいいという人もいるだろう。しかし、本の数で決めたいという人に必要な情報を分かりやすい形で提供することは必要だ。しかし、現在の評価結果の公表方法では、このような情報を探し出すのはきわめて困難である。
2008年5月アーカイブ
この第3者、大きな問題点がある。それは、7年に1度(専門職大学院は5年)しか実施されないのだ。法律では、「7年ごとに」となっている。せめて「少なくとも7年に1度は」とすれば良いものを、7年に1度と決めてしまっている。もちろん、7年以内に受けてもいいのだろうが、おそらくどこも7年に1度しか受けないだろう。現代において7年は長い。はじめての制度なので、評価する側のマンパワーの問題があるのは仕方ない。しかし、7年前の評価を参考に入学する大学を決めることができるだろうか。合格と評価された大学が7年の間に破綻することも考えられる。それでも7年に1度で良いといいきれるのだろうか。評価項目を簡素化してでも、頻度を上げる必要がある。4年に1度、本格的な評価を実施し、毎年、簡易な評価をするのではどうだろうか。簡易な評価とは、必要な数値データを大学が入力したものを自動的に処理して公表するようなもので十分だろう。定性的な情報が1年で大きく変化することはないだろうが、定量的な情報は毎年チェックし、変化を監視することで意味がある。大学がもっとも回避すべきは、在学生を抱えたままでの破綻であろうから、財務データは毎年、第3者評価機関が整理した形で公表すべきだろう。現在でも、多くの大学が公認会計士による監査を受け、その結果も公表している。しかし、公表の方法がまちまちで、比較するのも難しい。また、会計に詳しくない人が見た場合、分かりにくい。上場企業であれば、投資家が分析し、結果として株価に反映されるのかも知れないが、大学の場合、たまにマスコミが適当な分析をしておもしろおかしく公表する程度で、入学検討者のために整理された情報と言うのは存在しない。それにしびれをきらして、自らが格付機関に格付を依頼する大学も出てきたが、その結果は、大学のHPを見てはじめて分かる程度だ。
話がそれてしまったが、今度は、大学の財務内容は、リアルタイムで比較してみることができるようになるだろう。そして、大学がみずからセーフティネット、つまり、破綻する大学が出てきたら、お互いに学生を引き受けるような協定などを作らない限り、大学を選ぶ基準に財務内容が加わることになる。
事後チェックとは、「自己点検評価」とそれに基づいた「第3者評価」からなる。大学を開学した後は、自らが建学の精神を実現できているかをチェックし、その自己点検を第3者にも確認してもらいなさい、というわけだ。アメリカではこの第3者は、大学が自主的に作った協会となっている。つまり、大学同士がお互いにチェックし合う仕組みとなっている。日本の場合、この第3者を文部科学省が認証する。認証とは認可よりさらに裁量の余地がなく、手続きが法令に沿っていることを証明する行為なので、基準にさえ合致していれば自動的に認証される。しかし、実際には法律の基準があいまいなため、認証と言いながら認可より難しいような印象を受ける。そのため「第3者評価」といいながら、文部科学省の影響はアメリカのそれよりかなり大きいと思われる。とはいえ、第3者評価のお陰で、大学の認可が得やすくなり、実際、大学の新設が飛躍的に増加した。加えて、特区により大学設置基準の緩和も可能となったため、認可のハードルはかなり低くなった。しかし、特区大学が認可事項を遵守していなかったことで、緩和の流れが一時的に止まってしまった。とはいえ、規制緩和は大きな流れであり、今後も事前チェックから事後チェックへの移行は進むはずだ。第3者評価が機能するようになれば、大学の設置は原則自由となり、第3者評価を経た大学だけが正式な大学と認められるようになるだろう。
自由に大学が作れるようになれば、大学が乱立するかと言えば、そうはならない。なぜなら、第3者評価を得るまでは世間的には大学とは認知されないであるから、学生募集はかなり苦労する。第3者評価がなくても学生募集が可能な母体のあるか、相当の資金があるところしか大学に参入できなくなるからだ。現在のように事前に大学として認可されれば、予備校もいっせいに、新設大学として取り上げるため、開学と同時に結構な受験者を集めることができる。しかし、事後チェック中心となると、第3者評価を終えるまでは、高校も予備校もその大学を薦めることはしないだろう。そんな状況で学生募集が可能なのは、専門学校などで母体がしっかりしているか、4,5年程度の赤字に耐えられるだけの財力が必要となる。しかし、いきなり第3者評価を目指さなくとも、自称「大学」として小さく作り、力がついてきた段階で第3者評価を受ければいいわけで、小さな自称「大学」は乱立するかもしれない。もちろん、入学希望者は、その大学に「第3者評価適合」の印があるかをチェックして選ぶことになる。
大学の行方を考える上で、最初にやるべきであったテーマかも知れない。そもそも「大学」と誰が認めるか。現在は、学校教育法で「学校を設置する場合は、文部科学大臣の定める基準」をクリアしなければならないと規定されているため、文部省が認可することになっている。これは、国立であろうと私学であろうと同じだ。さらに、同法には、罰則規定もあり、かってに「大学」を名乗ると10万円以下の罰金が科せられる。この法律がある限り、「大学」と認めるかは文部科学省に認可の権限がある。ただし、認可なので、その裁量の余地は限られる。認可とはある行為が法律に従って有効かどうかを追認することなので、大学設置基準に従っているかを文部科学省が審査し、問題がなければ認可を出すことになる。ということは、基準に合致していれば認可が出ることになる。法律には「許可」というのもあるが、こちらは裁量の余地が広く、原則として禁止の事項を特別に認めるときに使う。しかし、認可だからといっても、法律の規程はかなりアバウトなので、そこに裁量の余地が生まれてしまう。新たな大学を認可するということは、既存の大学との利益が対立する行為なので、既存の大学を監督する立場でもある文部科学省としては、新たな大学の認可には慎重となる。大学が増えて、倒産する大学が出ることを恐れるのである。しかし、それでは公正な競争が阻害され、健全な大学の育成や学生の利益に反するという声が大きくなり、認可の基準を緩めるようになった。しかし、大学としての水準は維持しないと、国際的な競争に負けてしまう。そこで、アメリカで行われている事後チェックに重点を置くようになった。
昨日の続きです。学校法人には株式会社の資本金に代わって「基本金」というのがある。基本金とは、教育を行うのに必要な土地・建物や設備などの額なのだが、これらを基本金という科目に計上し、いったん計上すると、原則として永遠に保有するという前提にたっている。それも、基本金に計上する額を、まず収入から引いて、残りから給料や経費の支出をすることになる。
つまり、校地・校舎や教育用の設備にまず支出し、残りから給料などを払いなさいという考えになっている。そして、その校地・校舎や教育用の設備は、永続的に保有することを原則としていることになる。基本金には、これら以外に、将来購入する校地・校舎などのための資金、奨学金のための資金、最低限の経費の支払いに必要な資金も組み込む。学校として継続するために必要なお金を確保しようということだ。
例えば、収入が10億の学校が2億円で校舎を建てて現金で支払った場合、通常の企業会計なら、現金が2億減って、建物が2億増えるという処理をするだけだが、学校法人会計ではこれに加えて、収入から2億を引いて、基本金に2億円を加えるという処理を行う。そのため、この学校の支出が9億だった場合、企業会計なら1億の黒字のところが1億円の赤字ということになる。学校法人は原則として非課税なので、黒字が少なく算出されても税法上の問題は発生しない。それより、収益を圧縮して教育基盤を充実させることを優先しているわけだ。そのため、一見して赤字だったり、収益が少ないからと言って、すぐに問題になるとは限らない。逆に、基本金への組入れが少ない学校は、問題が内在している可能性がある。
この基本金が問題になるのは、将来購入する予定の土地や建物の代金についても組入れることができるため、黒字が多すぎるときに、急遽、土地や建物の購入計画を策定し、基本金に組入れてしまうと黒字を減らすことができる。逆に、必要な組み入れを中止すれば、収支が改善してしまうことだ。そのため、学校法人会計に詳しくない人が見ると、実際の収支がわかりにくいと批判を受けている。
ちなみに、19年度末の八洲学園の基本金は約61億円で、必要な組入額は全額組入れてある。
学校法人会計の話が出てきたので、ちょうど、本日理事会で承認された八洲学園の19年度決算を例に少し解説しておく。なお、詳しい決算書類は後日、HPで公表される。
まず、資金収支計算書。資金収支計算書は企業のキャッシュフロー計算書に相当するもので、学校が給料や経費の支払いを滞りなくできるかを確認するための書類だ。企業だと毎月作成したりするが、学校では年に1度が多い。これは、4月に授業料を受け取って、あとは、そこから経費を支払うだけなので、一度作れば十分ということなのだろう。いずれにせよ、重要なのは、前年度と次年度繰越支払資金の額。前者は、前年から持ち越した現金相当額で、これが手元にある給料や経費の支払いに充当できる額になる。八洲学園の場合、前年度繰越支払資金が12億6600万円。これに、その年に受け取るお金を足し、支払ったお金を引くと、次年度繰越支払資金が出てくる(八洲学園の場合だと、14億9800万円だった)。前年度繰越支払資金がゼロでも、受け取るお金が支払うお金を上回っていれば、理論上は支払いに困ることはないが、自転車操業状態で、受け取りと支払いのタイミングが狂うと、支払い不能ということも起こりうる。この支払い資金が2億3200万円増えているが、消費収支計算書(企業で言う損益計算書)を見ると4200万円の赤字となっている。つまり、赤字なのに現金が増えていることになる。これは、建物の減価償却が関係している。減価償却とは建物の家賃のようなものだ。自分で購入した建物だと家賃は発生しないが、実際には建物が古くなり、いずれは建て替える必要が出てくる。その分を毎年、家賃のように費用として計上しようというわけだ。実際にお金を支払うわけではないので、資金収支計算書には現れない。そのため、資金収支上は黒字でも、消費収支上は赤字ということになる。資金収支が黒字なので、当面の支払いに不安はないが、将来、建物が老朽化した場合に、建て替えるお金まで考慮すると不足すると考えると分かりやすい。
これだけなら、企業会計とほぼ同じなのだが、学校法人会計では収入の合計から教育用の機器や備品の購入代金を基本金組入額として引く。この説明をするには、まず基本金について書く必要があるが、これは明日以降に。
学費の話題ついでに学校法人会計についても考えてみたい。最近は、特区で株式会社が大学を設置できるようになったが、原則として大学を設置できるのは、国、地方公共団体か学校法人だけとなっている。この学校法人が採用している会計は、一般企業が採用している企業会計と違って学校法人会計と言われるものになっている。企業会計なら損益計算書、貸借対照表にキャッシュフロー計算書といったところが代表的な計算書類なのだが、学校法人では、損益計算書に相当するのが消費収支計算書、キャッシュフロー計算書に相当するのが資金収支計算書、それに貸借対照表となる。呼び方が違うだけなら問題ないが、その中で使われている勘定科目名も違えば、基本的な考え方も違う。学校法人の場合、利益を追求することを目的としないので、収益の状態を明らかにするより、法人の永続性を確保するため、その資金繰りを明らかにすることに力点を置いている。つまり、運営を継続するのに必要なお金があるか、費用の支払いに支障はないか、将来の教育環境の整備に必要な資金が確保されているかなどを明らかにすることを目的としている。そのため、企業会計を見慣れている人からも分かりにくいと批判を受けている。企業会計にキャッシュフローという概念が浸透していない頃から資金収支を明らかにしようという考えは優れていたと言える。しかし、すでに企業会計がキャッシュフロー計算書を取り込んでいるのだから、独自の学校法人会計を維持する必要性は少ない。
大学法人においては、情報公開が進み、7割ほどの法人が決算書類をホームページなどで公開しているのだから、より分かりやすい企業会計に準じた方法に移行するのが適切だろう。
言うまでもなく大学の収入の大半は学生からの納付金、つまり授業料である。ここに建学の精神を掲げて独自の教育行いたい大学としては矛盾が生じる。というのは、大学だけでなく私学は、育成したい人物像がある。それに伴ってどういう人に入学して欲しいかも決まっている。それに沿って入学試験を実施して選抜しているのだが、授業料をもらうと言う前提があるため、大学が本当に欲しい学生を自由に選抜できるとは限らない。理想は、学費は無料として欲しい学生を世界中から探し出して入学してもらうことだ。実際、スポーツなど部活においては、優秀な学生を授業料免除で入学させている。高校の野球部でこれを実施して問題になったが、大学で問題視したという話は聞かない。欲しい学生は、授業料を免除するばかりか、奨学金を付けてでも入学してもらうのは当然だろう。学習塾や予備校でも成績が優秀なら授業料免除で入学してもらっている。大学が欲しいと思う学生に入学してもらい、大学の理念に従って教育した人材を世に送り出すのが大学の使命であるのだから、本来、授業料を受け取るかどうかは別問題のはずだ。海外では、このような理想を実現している大学もあるが、日本では存在しない。それだけ日本の大学の財政基盤が脆弱ということだ。加えて、日本の金利が低いことや、これまで文部科学省が学校法人の資産運用を制限してきたことが災いしている。理念に賛同する個人や法人から寄付を集め、その寄付金を元に資産運用し、その運用益だけで教育ができて初めて、大学が自由に教育できることになる。もちろん、学費の支払い能力があれば、学費をもらえばいい。卒業後に成功すれば、大いに寄付してもらえばいい。そのような大学(ただし大規模ということはあり得ない)が、今後、生まれてくるのではないだろうか。
学費で、不思議なのが前払いということだ。前払いということは、お金がないと入学できないことを意味する。公的な奨学金制度や大学独自の学費減免措置などもあるが、いずれも入学後の話なので、そもそも1円も払えない人は入学できない。これでいいのだろうか。優秀な学生を確保したい大学は、支払い能力の有無に関係なく、学生の能力のみで入学の可否を判定するようになるだろう。能力が高い学生と判断したら、あとは、どうやって学費を工面してもらうかを考える。つまり、お金の心配は入学後ということになる。その入学後のお金の工面の方法として、いくつか考えられる。1つは、先に書いた奨学金。優秀で大学がどうしても入学させたいと判断した場合、授業料だけでなく生活費も含めて奨学金を出せばいい。そこまででない学生に対しては、後払いや分納を認めればいい。学業に影響が出ない程度のアルバイトで支払える学費になるように奨学金を出したり、卒業後の延納を認めるという方法もある。また、将来性のある学生にはスポンサーをつけるということも考えられる。スポンサー企業に就職するという前提で、その企業が学費を払う。他の企業に就職した場合は、返還義務が生じる。これは、一種の奨学金と言える。さらに、進めて、学生の将来の所得を担保に債権化するということも考えられる。返還義務のある奨学金を貸与するのだが、貸与するかどうかは、大学が判断するのではなく、資金の出し手となる。その学生の将来性を判断して貸し出す。この場合、親の所得や成績で判断するのではなく、あくまでも投資として学生の将来性を判断することになる。将来有望なスポーツ選手に資金を提供するのに近いかも知れない。現在の法律では、給料からの天引きで債権を回収することができないので、やや難点はあるが、このような制度があれば、優秀(単に成績だけでなく、たとえば将来医師として成功するか)であればお金がなくても医学部に進学することもできるようになる。
大学の授業料ほど根拠が分かりにくいものはない。原価計算という概念はまったくないと言ってもよい。かといって需給で決まっているとも言いがたい。小中高のように1クラスの人数が一定で、全員が同じ時間割を受講しているのであれば授業料の原価を計算することは可能だろう。しかし、大学の場合、クラスサイズは科目によってばらばらな上に、一人の学生が受講する科目(単位)数も違うにも関わらず、1年間の学費が同じだったりする。変なたとえだが、食べ放題のバイキング形式の料金体系となっている。しかも食べ残したら、留年という名の下に、もう一度代金を払わなければいけない。
もし、需給で授業料が決まるのであれば、定員割れの大学は安く、競争率の高い大学の学費は高いということになるはずだが、現実にはそうはなっていない。最近では、人気のない大学は特待生を乱発して実質的に学費をダンピングしたりしているので、多少は需給を反映するようにはなってきた。クラスに空席があるなら、学費を安くしても入学してもらった方が良いのは明白だろう。ホテルが当日に空室があれば安くしているのと同じだ。単に学費を安くするのに抵抗感があるからか、入学金免除とか特待生という名目で学費の値引きをしている。これも、大学の経営努力の1つと言える。さらに進めば、学費は学生ごとに違ということも考えられる。家電量販店の店頭でお店と顧客が値引き交渉を行うように、学生と大学が学費の値引きについて交渉するようになる。と書くと「まさか」という感想を持たれるかも知れないが、アメリカでは昔から当然のように、学生と大学が交渉している。ただし、学費を値引きするのではなく、奨学金の額を交渉する。大学がその学生をどくらい入学して欲しいかで、奨学金の額を変える。学生は、少しでも有利な条件を提示してきた大学を選ぶ。このような交渉の場が、AO(アドミッションオフィス)だ。そのため、ほとんどの学生が額は違うが、なんらかの奨学金を受けている。その分、学費自体は高めに設定されている。奨学金を受けずに高い学費を払えば、多少成績が悪くても入学できる。学費が需給で決定されているわけだ。いずれ日本でも、このような仕組みが導入されるだろう。
職員の仕事に限定して考える必要はないが、その仕事の重要度も考えておく必要がある。どの職業も社会にとって必要であり、その価値に優劣をつけることはできない。そういう意味では、教育の仕事は国家百年の計を司るから他の仕事より尊いなどとは思わない。数ある職業の1つでしかない。しかも、人の生死にあまりかかわらない。生死に直結する医師や看護師だけでなく、パイロットや電車、バス、タクシーなどの運転手、また食品や子供向けの玩具、衣服などの製造など、一歩間違えば命に関わる仕事のことを思えば、緊迫度は低い。さらに、生きていくために最低限必要とされる衣食住の範疇にも含まれない。つまり、教育とは生命の安全が保障されいる平和な時期にだけ必要とされる仕事である。まして、高等教育となると社会生活を営むために必要な義務教育段階とは違う。つまり、人生をより豊かにするための仕事である。ということは、基本的なことを確実に正確に行えるというだけでは不十分で、仕事を通じて、お客様に感動や満足を与えることができなければ、必要とされないことになる。これまでは、供給より需要が多かったため、単に正確に教育が提供できればそれでよかったが、これからは、付加価値が創造できる職員が求められる。
大学職員が大学管理の専門家となるためにはどのようなスキルが必要なのだろうか。それを考える前に、まず、現状の大学職員にどのような仕事があるかを概観してみる。
大学の事務組織としては、学生課、教務課、総務課、厚生課、施設課、人事課、会計課、広報課などさまざまある。また学部や研究所ごとに違った組織を配置していたり、教職免許課、留学生課、産学連携課など大学の特色を現す部課を配置している場合もある。しかし、ここで問題となるのは、大学事務固有かどうかで、その名称ではない。その観点で見ると、ほとんどの仕事は、大学以外の教育機関も含めれば他の民間企業に存在する内容に思える。大学固有の機能が学位の授与や大学でしか取得できない資格(教員免許など)の授与と考えれば、学位や資格に相応しいカリキュラムの編成が唯一、固有の仕事と言うことになる。もちろん、同じ会計、人事といっても大学ゆえの違いが存在するが、それは大学だからというより、各大学、各組織の特色に由来するものだろう。経理のエキスパートであれば、学校法人会計をマスターするのにそれほど時間は要しないし、総務、施設、人事などを企業内で専門にしてきた人であれば、大学でも同様に活躍できる。もちろん、各部署の専門家というだけで、運営管理ができるわけでなはなく、大学管理者としては、すべての部署の仕事を把握している必要がある。しかし、それ以上に大学を含めた教育機関が置かれている環境を分析し、その将来を見通す力、その予測に対応する施策を考え実施する能力が要求される。ところが、これも「大学」の部分を他の業界名に置き換えれば、どの企業の幹部も行っているのと同じ業務ということなる。そう考えると、大学の管理者として必要とされる能力の大半は企業のそれと同じで、固有の専門知識はカリキュラムという商品知識と商品開発力ということになる。
水戸にあるリリーベール小学校を見学させてもらった。茨城県では2校目の私立小学校として開校して5年目。決して人口密度が高くないエリアに立地しているが、県内に私立がないということもあり、遠方からも含めてほとんどの児童をスクールバスで送迎して入学者を確保している。もともとは洋裁系の専門学校からのスタートだったそうだが、いまは「子ども」にフォーカスをあてて、幼稚園、保育所、水泳教室、英会話教室などを展開している。あくまでも「子ども」にこだわっているため、中学校や高校を作るつもりはないとか。小学校の先生も、グループ校の幼稚園で1年間の研修を受けさせている。言葉で意思を伝えることが出来ない「子ども」とコミュニケーションをとることができなければ、小学校の先生も勤まらないというわけだ。
理事長先生は、「全国的も私立小学校は数が少ない。中高なみに小学校も私立が増える可能性は秘めている」とも話されていた。
イギリス風の街並みをイメージして作られた校舎
大学には教員と職員しかいないとすれば、大学の経営はいずれが行うべきだろう。
モデルとしてはいくつか考えられる。1つは、学長が教員をとりまとめ、教育と研究の柱となり、経営は理事長が行うパターン。ほかに、学長は大学の顔として対外的な広報活動を主に担当し、副学長に教員出身者と職員出身者を配置するパターン。学長に外部もしくは理事会出身者を置いて、教員から副学長を選ぶ方法なども考えられる。いずれにせよ、いくら経営学や大学論が専門としても、大学院を修了してそのまま大学に就職した教員が大学経営をうまくやれると期待することは難しい。経営について書き始めると長くなるので、別の機会にするとして、一言だけ言えば、経営は理論ではなく実践だということだ。それと、学校法人だと、ほとんどの場合、学長は理事に就任するが、理事は大学だけでなくその学校法人が設置するすべての学校について無限責任を負うことになる。理論上、学長と理事を分離することは可能ではあるが、設置する学校の長の一人は理事に加えることが義務付けられているので、通常、大学の学長は自動的に理事になってしまう。このあたりの学校法人制度にも改正の余地がある。学長として理事に選出された場合、その責任を大学に限定できれば良い。株式会社で言えば、執行役員のような位置づけかも知れない。
余談になるが、学長と理事長を兼務している場合に、総長と呼ぶ大学があるが、これは独自の呼称で法令で定義されているものではない。同様に学園長という呼称もその学園独自のものである。
大学の経営管理を行う専門家を養成する動きが大きくなってきている。特に、国立大学が独立法人化し、独自の経営を余儀なくされたことから、その必要性がより注目されるようになった。おそらく日本で最初に大学院の専攻としてスタートしたのが、桜美林大学大学院だろう。今年から研究科として独立した「大学アドミニストレーション研究科」では、通学(夜間)と通信の両方で大学経営が学べる。実は、私も大学を設立するのに先立ってここへ2年間通った。桜美林以外では、東京大学大学院の教育学研究科に「大学経営・政策コース」というのがある。また、研究所として、広島大学に「高等教育研究開発センター 」と筑波大学に「大学研究センター」がある。特定の業界向けに、その経営者養成の大学院コースがあるということになる。たとえて言えば、小売業向けMBAコースやIT業界向けMBAコースがあるようなものだが、大学職員が20万人もいないことを考えるとわざわざ専用のコースを設けるほどかは疑問がある。
ただし、これまで大学の経営は、国立にはそもそも経営という概念がなく、オーナーがいる私学ではオーナーが、オーナーがいない場合は、教員が行っている場合がほとんどだった。オーナー系は経営を学んだり、一般企業で実践を経験している場合もあるが、教員の場合はほとんどが専門外だ。つまり、大学経営について何も知らないままトップに就任し、舵を取っていることになる。企業で言えば、研究一筋の技術者が社長に就任するようなものだ。もちろん、研究者の中には経営センスが優れている人もいる。大学教員ともなるとポテンシャルも高いので、うまく経営できる人も多いかも知れない。しかし、経理、財務や人事といった専門的な知識を身につけるのは簡単なことではい。これまでは、このような素人トップでも大学の運営ができる平和な時代だったのかも知れない。しかし、これからは株式会社立大学、海外の大学や民間教育機関がライバルとなり、敵はプロの経営者である場合が多い。となると、大学の運営を経営の専門家が行うところが増えてくるのではないだろうか。それは、学内から探すのではなく、広く社会から募ることになる。もちろん、大学経営を専門に学び、実践してきた人が良いだろが、そのような人材は多くないので、企業経営の専門家が大学のトップとして迎えられるようになるのだろう。もしくは、学長を教職員から選出した上で、その学長をサポートする経営に長けたスタッフを配置する形になるかも知れない。
いずれにせよ、大学が自ら「経営」の必要性を感じ、その専門家を養成する大学院を設置し始めた。これからは、上手に経営できる大学だけが生き残ることができるようになるのだろう。そのため、職員出身の学長や、民間出身者が学長に迎えられるケースが増えるのではないだろうか。卒業生の企業経営者が母校のために一肌脱ぐというケースはこれまでもあったが、卒業生に豊富な人材を抱える伝統校以外では、それも難しい。職員の中に、大学経営を学びいつでも学長ができるような人材がどれくらいいるかが、大学の運命を左右するようになる。
教員と職員の給与の違いが是正される方向に動くとすれば、方法は2つ。教員給与の引き下げか職員給与の引き上げ。実際には両方が同時に起こるのだろう。給与が需給関係で決まる(人気職種が高く、不人気であれば低い)とすれば、実は逆転してもおかしくない状況になりつつあるのだ。かつては、大学のみならず先生という仕事は尊敬の対象であり、特に大学の教授ともなれば憧れの仕事でもあった。しかし、大学院進学率の上昇で博士号取得者も増え、教員希望者も増加した。加えて、実務家教員や民間からの教員転向者も増えたため、教員は買い市場となっている。一方、職員は、かつては学校職員といえば、休みが多く、若い学生と接することができるということもあり、人気職種だった。しかし、18歳人口減少による入学者減から夏休みだからと言って休んでいる場合でなく、業界全体の市場が縮小しているのに、競合が次々と参入するという構造不況業種状態になっているわけで、冷静に業界研究した学生であればまず希望しない業界となっている。しかも、大手大学ならいざ知らず、ほとんどの大学法人は民間で言えば中小企業規模であり、いつ倒産してもおかしくないとも言える。このような状態で、民間の採用意欲が旺盛になれば、大学職員は採用が難しくなってもおかしくない。
しかし、給与は需給だけで決まるものではなく、その仕事の内容も影響する。職員の仕事が高度化し、給与が上昇する可能性もある。これまで、職員は事務という狭いカテゴリに押し込められ、企業で言う一般事務的な仕事内容しか担当してこなかった。そのため教員のサポート的な立場であり、給与も教員より低く設定されてきたのかも知れない。しかし、これからは大学職員の中から大学の管理者もしくは、大学管理の専門職として活躍してくる人材が出てくる。この場合、大学運営は職員が担い、教員は教育や研究の専門職として位置づけられる。技術系の民間企業で言えば、社長や取締役が経営の専門家で技術者は研究開発に専念しているようなイメージかも知れない。もちろん、技術者出身の社長を否定するものではない。
大学設置基準で事務職員も教員と並んで位置づけられている。そのためか人数的にも教員と匹敵するだけの事務職員を抱えている。19年度学校基本調査によると、専任教員は167,636名(国立60,991、公立11,786、私立94,859)、事務職は188,876(国立60,205、公立12,071、私立116,600)となっている。ちなみに小学校の場合、教員418,246に対して事務職84,990、中学では教員249,645事務職33,561、高校は公立だけの統計しかないが、教員184,162事務職39,522なので、大学には非常勤講師も多いという事情はあるにしても、大学における事務職がいかに大きな役割を果たしているかがわかる。
ちなみに、アメリカはどうかと調べてみたところ、アメリカ教育統計局(National Center for Education Statistics:NCES)の2005年のデータによると、短大・4大におけるフルタイムの教員が1,432,107で職員が747,757だった。教員・事務やフルタイム・パートタイムの区分などが日本と違うので単純に比較はできないが、事務が多いと思われるアメリカより日本の方が事務が多いことになる。
なぜ、大学だけ事務職が多いのか。1つは給与の問題かも知れない。教員より事務の方が給与が安い。いまは国立大学も独立法人化されたため各大学で給与が違うため比較が難しいが、1つの目安として、大学設置の際に寄付行為の認可申請というのを行うが、その際に運営に必要な資金を保有しているかという項目がある。その必要な資金の1つとして給与があるのだが、教員は一人当たり860万円、職員は610万円で計算することになっている(学校法人の寄附行為及び寄附行為の変更の認可に関する審査基準、平成十九年文部科学省告示第四十一号)。また、大学が補助金を申請する際に、大学が要する経費の算出にも標準給与という概念があって、そこには教員が573.1万円、職員360.1万円とある(私立大学等経常費補助金取扱要領)。金額の絶対額の違いは、数字の使い道が違うので無視するとしても、教員の方が多いことには違いない。ただし、教員は、当初は助手や非常勤講師として事務職より安い給与や不安定な身分で過ごすことが多く、一人前の給与がもらえる年齢は相当高くなる。その結果、平均値が高いということも考えられる。また、平均年齢も教員の方が高いと思われるので、実態として給与格差がどれほどあるかは判断が難しい。
しかし、教員の方が給与が高いことを合理的に説明することは難しいだろうし、給与に違いがあるというか、給与体系に違いがあるのは間違いない。果たして、この状態がこのまま続くのだろうか。
教育に専念する教師は、相当な訓練をする必要がある。まずは発声練習からだろう。表情のトレーニングや歩き方の練習も必要となる。しかし、FDでここまでやっている大学はないだろう。実際、そこまでして教師になりたいという人は少ないのではないだろうか。基本的に自分の関心のあること、自分が知っていることを他の人に伝えたいとの欲求から教師になる人が多い。もともと、自分が好きで関心がある分野を担当しているわけなので、研究したくないという教師もいない。ただ、研究の成果を求められると、そう簡単ではなく、残念ながら世間で成果と認められるような結果を出せない教師もいる。しかし、教育を行うために行う研究であれば、必ずしも成果は必要ない。失敗も実体験である。何も成果がでなかったということ自体も成果といえる。その失敗談は、むしろ成功した話より学生の関心を引く可能性もある。必要なのは、自ら研究し体験することである。もちろん、何らかの成果が出るに越したことはないし、成果を出すべく研究を行ってはいるのだが、目的は教育であって、研究自体が目的ではない。この手段としての研究が目的化しきたのが、これまでの大学における研究の実態ではないだろうか。しかし、世間は、一部の大学に対して研究成果を求める。これらの大学においては研究のみを行う教師(これを教師を呼べるかは疑問だが)が存在するが、彼らは成果を出さない限り、何の目的も達成できないのは言うまでもない。
研究に基づいた教育を行う教員と、教育に専念する教員は別の職業だと書いたが、もう少し詳しく考えてみる。
前者は、たとえて言えば、スポーツ選手、企業経営者、科学者、芸術家などそれぞれの分野での成功者から話を聞くのに近い。彼らは話をすることは得意ではないが、それぞれの道を究めた人たちなので、興味深く話を聞くことが出来る。教員も、それぞれの研究分野においては第一人者である。通常、研究は同じ内容を行っても意味がないため、すでに行われた研究を元に、さらに掘り下げたり、誰も研究していない分野に展開したりする。つまり、常に新しい分野の研究を行うことになり、その特定の分野の研究はその教師が第一人者ということになる。その第一人者の話なので、興味深く聞けるというわけだ。もちろん、聞く側がその分野に興味があればという前提にはなるが。
一方、教育に専念する教師は、先人の研究成果を分かりやすく伝えるのがその役割となるため、いわば、俳優のような仕事になる。それも、舞台俳優だろう。eラーニングやビデオならテレビや映画俳優かも知れない。しかし、テレビと映画ではその演技が違ってくるように、ビデオとeラーニングでもその授業方法は変わる。舞台でも、小劇場と大劇場では演技が違う。プロはちゃんと使い分けている。同様に、少人数の授業と大講義では、授業の方法が違う。授業の内容は、一言一句まで書いた台本こそないが、おおよその内容はすでに教科書があるので、生番組の司会者と言った方が分かりやすいかも知れない。ストーリーは放送作家が台本を書いていくれるが、ゲストや観衆の反応を見ながらアドリブも随所に入れる必要がある。この俳優や司会者をテレビで見るたびに、その技というか話術、そして頭の回転の速さに驚かされる。相当な訓練を積んでいるのだろう。教育に専念する教師は、少なくとも研究に基づく教師が研究に費やすのと同じ程度、この訓練を行う必要があるということになる。
小中高の教師と大学の教師の最大の違いは、教える中身を自身で研究しているかどうかだ。そういう意味では、研究をしない大学教師はあり得ないということになるが、教育に特化した大学教員はアメリカや日本にも存在する。小中高の教師も大学生の頃には担当科目について専門的な勉強をしただろうし、教師になってからも教材研究はしている。しかし、教える内容については自分が新たに研究したり発見したりということはない。すでに確立された内容をいかに興味を持ってもらい、分かりやすく伝えるかが中心となる。大学においても科目によっては変化がなく、毎年同じことを教えることになるという場合もあるが、その場合においても、大学教員は担当科目の周辺分野について研究を続けている。この自らが研究した成果こそが、学生に学問的興味、関心を呼び起こす。なぜなら、人は実体験に基づいた話を説得力を持って聞き分けるからだ。人からの伝聞や本の知識の受け売りではなく、自らの体験に基づいた話の場合、話し方の上手下手に関係なく、聞いている者に伝わる。たとえて言えば、所有もせず、乗ったこともない人からある車のすばらしさを説かれてもピンと来ないが、実際に普段乗っている人に言われると納得してしまう。また、ラジオやテレビの通販では、商品を紹介する人にあらかじめ、その商品を持ち帰って使ってもらった方が売り上げが増えるそうだ。いくらプロが書いた原稿をプロが読んだとしても、使ったことのある商品とない商品では、そのせりふの説得力に差が出る。
つまり、教師が自ら研究したり、社会で実践してきた内容を学生に話す場合、その話は説得力を持ち、学生を引き込むことになる。それが大学における授業の特色である。もちろん、授業に参加している学生の実体験を引き出し、交換することで、授業はより興味深いものになる。
いずれにせよ、研究に基づいた授業はおもしろく、それは拙い話術をカバーして余りある効果をもたらす。研究の余地の少ない小中高の教師は、その分、おもしろい授業のための教材研究や話し方の練習に時間を割くことになるが、大学においては、いかにFDと称して授業方法を研究したとしても、研究を怠れば、とたんに授業は陳腐化し、学生は興味を失う可能性を持っている。
その点、実務家教員は研究を行わなくても、日ごろの実務がすべて実体験であるため、その話は大いに説得力を持って伝わる。ただし、実務家であり続けることが前提で、いったん実務を離れ、大学教師に専念すれば、すぐに研究をしない教師以下になってしまう。
逆に、教育に専念する教師は、相当の覚悟を持って教育方法を研究し、訓練する必要がある。言葉のひとつずつを慎重に選び、目線、しぐさにも注意を払い、どんな些細な学生の反応も見逃さない注意力も養う必要がある。しかし、これらに向いている話し上手な教師は限られる。それより研究をベースに教育を行うことの方に長けている教師が圧倒的に多いのではないだろうか。この両者は同じ教師と言ってもまったく別の職業と思っても良いくらいなのだ。
実務家教員の問題点がもう1つある。実務家というのは、実務をしているから実務家なのであり、実務を離れると、とたんにその技能、知識が陳腐化する。つまり、本来の実務家教員というのは、実務を行いながら教壇にも立つことが求められる。弁護士や会計士は個人事業主なので、副業として教員をすることは問題ないし、業界団体としても専門職大学院をバックアップしているので、実務家教員の確保は可能である。しかし、実務家の多くが企業に属しているような分野の場合、企業の協力が得られないと、実務家が確保できない。企業を退職してまで教員になったとしても、実務家教員と言えるのは、最初の2、3年で、あとは研究を元に講義をする従来の教員になるか、元実務家教員として古い知識の切り売りをするしかなくなる。企業を定年退職後に大学に勤めるというコースもあるだろうが、若手で最前線で活躍している実務家も不可欠だ。となると、企業や業界団が大学に協力し、在職のまま大学に優秀な人材を送り込む必要がある。この方式を早く確立した大学が業界からも学生からも高い評価を受けることになる。また、企業側も大学のリソースを活用できるため、送り出した教員の人件費を負担することもあり得るだろう。大学としては少ない費用で、優秀な実務家教員を確保できることになる。ということは、企業側から見た場合に、魅力ある大学が生き残れる大学ということになる。企業側は、大学の研究能力、人材ネットワーク、卒業生のリクルートなどさまざまな要素で大学を評価することなる。企業はもちろん、資本の論理で判断するため、大学にも資本の論理が大幅に持ち込まれることになる。
最近、教員の中に実務家教員というのが増えてきた。本来は専門職大学院という、これまでの大学院と違い、「高度の専門性が求められる職業」のための大学院が新設され、この専門職大学院の特色として、「専攻分野における実務の経験を有する」教員を配置しなければならないという規定が専門職大学院設置基準に明記されたことによる。これまでの大学院では教員は研究者という前提だったが、専門職大学院では、実務経験のある人を教員に加えることを求めている。職業に直結した大学院なので当然だろう。当初、この専門職大学院がターゲットにしたのは弁護士養成だった。そこで、現役の弁護士が実務家教員として教壇に立つことになった。その後、いろいろな分野の専門職大学院が作られるようになった。
この実務家教員というのが、今後の大学の行方に大きな影響を及ぼすと考えている。この実務家教員が専門職大学院のみならず、大学や従来の大学院でも多く採用されるようになってきたからだ。
実務経験のある人が教壇に立つことは、職業教育という観点で言えば、極めてまともな選択である。そいういう意味で、専門職大学院に実務家教員という制度を導入したのは当然なのだが、大学で実務家教員を導入するとどうなるか。職業教育は、これまで専門学校がその多くを担ってきており、一日の長がある。大学には大学ゆえのメリットもあるので、専門学校と同じ土俵に上がっても伍していけるとは思うが、今後、専門職大学院が充実してきた場合に、この専門職大学院との接続を考えても、大学で職業教育を行う必要があるだろうか。すでに、述べたように大学は高校化し、一般教養を身に付け、専門的な教育、職業教育は、その後の大学院で学ぶという流れになった場合、職業教育を行う大学は、かつての職業高校(いまは専門高校と言っている)のような位置づけになる可能性がある。十分な基礎教育を受けず、一般教養を身につけていない若者に専門的な職業教育を実施しても、優秀な即戦力として社会が受け入れてくれるだろうか。かつての職業高校→就職が普通高校→専門学校→就職、高度な専門家は普通高校→大学→専門職大学院に変化していくと思っている。もちろん、もっと複線化するだろうから、これらは数あるルートの1つではあるのだが。
大学の教員は担当する科目ごとに決まると書いたが、最近は、科目を担当しない教員も増えてきた。1つは研究に専念する教員、もう1つとして、大学の運営に専念する教員である。研究だけを行う教員がいても不思議ではないし、昔から存在した。しかし、運営に専念するとなると教員ではなく、事務職に分類されそうだが、あくまでも教員の立場で運営に専念している。例えば、学長が講義を担当しなければ、これに該当する。学長ともなると多忙なので、とても講義を担当する時間がなくても当然である。同様に、学部長、学科長や各種委員長など、大きな大学になると授業を免除されて、その仕事に専念している教員がいる。もともと、大学とは教師が集まって出来たものなので、教師だけで構成されていた。いまでもヨーロッパの大学では、ほとんどの仕事を教師が行っている。それが、アメリカでは分業が進み、教員と事務に分離し、大学によっては事務が大学の運営を主導し、教師は専門職として教育だけに専念しているところもある。日本では、ヨーロッパ型が多いように思うが、規模、歴史的経緯や理事会の方針でさまざまのようだ。
意外と知られていないが、大学の教員に免許は必要ない。幼稚園、小学校、中学校、高校まですべて教員免許が必要で、教員免許は通常、大学で取得する。しかし、大学で教えるにあたって、特に何の資格も必要としない。だから、昨日まで政治家、財界人や芸能人だった人が、いきなり大学教授になったりしている。その大学が教員として採用すれば、その日から大学教員となる。もちろん、ある大学で教員だからと言って、他の大学でも通用するわけではない。大学教師には教授、准教授(かつての助教授)、講師、助教(かつての助手から分離)、助手という区分があり、学校教育法で定められている。しかし、だれを教授や准教授にするかは各大学が決めることが出来るため、ある大学の教授が他の大学へ転職しても教授となる保証はない。あくまでも、各大学が自由に決めているのである。これは、大学の自治を尊重しているからである。大学の自治については、また別の機会に書くとして、ここでは、単に大学には、伝統的に自由が認められているとだけ書いておく。いずれにせよ、教授や准教授について一律の基準というのは存在しない。もちろん、各大学はそれぞれ、基準を設けて、厳密な審査をしているが、一般的には分かりにくい。加えて、名誉教授や客員教授などという呼称を独自に使っている大学も多い。
大学教員の資格はないと書いたが、唯一例外として、審査を受けることがある。新しい大学や学部を設置するときだ。大学や学部の設置申請を行うときは、カリキュラムと担当教員も明確にする必要があるのだが、その科目を担当するのに相応しいかが審査される。たとえ、他の大学ですでに教授として教壇に立っていたとしても、審査対象となる。この場合の審査は、担当する科目の内容ごとになるからだ。つまり、大学の教師というのは、担当科目が明確に決まっている。もちろん、複数の科目を担当することもあるが、理論上は、A科目では教授、B科目を担当するときは准教授ということもあり得る。実際、そんなケースは聞いたことはなく、B科目を教授として担当でけるだけの実績を残すまでは担当させないのだろう。いずれにせよ、科目と教師が結びついているという点が、今後の学部転換やカリキュラムの改定に大きな影響を及ぼす。つまり、科目名を少し変更しただけでも、これまで担当してきた教師がそのまま担当できるとは限らないのである。もちろん、新設時以外は、学内での審査だけなので、ある程度の融通は利くだろうが、教師によってカリキュラムの編成が制約を受けることに変わりはない。
通常、大学では科目ごとにシラバスというものが作成され、公表されている。最近では、専門学校や小中高校でもシラバスを作成しているところもある。しかし、このシラバスの本当の意味を理解せずに作成している学校も多い。小学校や中学校で作成しているものもシラバスと呼んでいるということは、単に、講義概要や授業計画のように思っているからだろう。また、評価方法や参考資料など、シラバスとして必要な要件を満たしているとしても、本来の大学におけるシラバスの意味を理解せずに使っているところも多い。シラバスとは、学生と教員の契約書と位置づけになる。学生をシラバスの内容を理解し、納得した上で履修を申し込む。履修条件を満たし、いったん履修を認めた場合、教員はシラバス通りに授業を実施し、学生を評価する義務が発生し、学生はシラバスに示された通りの予習・復習を含めた学習や実習などを行う義務が生じる。学生、教員双方に義務を生じさせる重要な契約書なのだ。
シラバスの項目や内容は、各大学が自由に決めている。そのため異なる大学間で比較することも出来なければ、横断的に検索することもできない。同じ大学内でも、教員ごとに書き方が違って、学生が混乱することもある。大学間の横断的検索については、独立行政法人のメディア教育開発センターが実験しているが、まだ一部の大学しか収録されていない上に、エラーも多い。また、技術経営系の専門職大学院(いわゆるMOT)が合同で科目検索システムを運営しているが、グーグルやヤフーにお願いした方が早いかもしれない。ちなみに、アメリカのヤフー、グーグルをざっと見たところシラバス検索機能は見つけることができなかった。
入学者の学力が低下し、これまでの大学入学レベルに達しいないとなると、大学としてはまず、高校レベルの学習からはじめるしかない。大学卒業レベルは国際的要求から、そう簡単に下げるわけにはいかない。となると、4年間にこれまで以上に詰め込まざるを得なくなる。といっても、単位の実質化で書いたように、1単位に相応しい学習量を要求すれば足りるのであって、それほど難しい話ではない。学生の自主性に任せても予習や復習に多くの時間を費やしてくれることは期待できないので、大学が授業時間数を増やして対応することになるだろう。これまで、1単位15時間だった科目を20時間や30時間に増やし、増えた時間分で基礎的な内容を学習することになるかも知れない。または、別の基礎的な科目を追加開講することも可能だろう。その基礎的な科目は専門科目ではなく、かつての一般教養科目のような位置づけかも知れない。
リベラル・アーツ化、学位の非独占化、大学卒業資格試験の導入など現実のものとなってきた場合のカリキュラムはどのようなものになるだろうか。
それを考える前に、1991年以前に大学を卒業された方のために、現状を簡単に書くと、いまは昔のような一般教養という区分は廃止されている。もちろん、禁止されているわけではないので、一般教養的な科目を開設している大学も多いが、かつてのように、人文科学、自然科学、社会科学、語学から何単位とか、体育が必修とかという法令による縛りはない。各大学が自由に設定しても良いことになっている。だから八洲学園大学のようにすべてが専門科目でも問題ないわけだ。これを大学設置基準の大綱化と言っているが、この大綱化から20年近く経過し、その弊害も出てきている。大綱化により、各大学はカリキュラム編成の自由度が増し、より多くの時間を専門科目に割くことができるようになったが、新入生の学力が向上したわけではないので、いきなり専門的な科目についていけない学生も出てきた。むしろ、定員の増加、進学率の上昇で、学力の低下が指摘されているほどなので、専門教育に耐えられるだけの基礎教育の必要性が出てきている。また、入学試験の多様化で、専門教育で必要とされる科目の入試を受けないばかりか、医学部なのに生物を高校段階で履修していない学生が入学してくるいう現象まで起きている。そのため各大学は入学前教育(リメディアル教育)に力を入れるようになってきた。入学までに時間的余裕のある推薦入学者を中心に、英語、作文やパソコンなどの教育を行っている。これらの入学前教育を予備校に依頼している大学もあるようだ。一芸入試などで合格した場合、基礎学力がどの程度かは分からない。入学後の授業についていけるように入学前教育が必要というわけだ。しかし、冷静に考えてみれば、これは学生確保のため、大学入学レベルに達していない人を合格させているだけだろう。多少の学力不足は入学前教育で追いつくかも知れないが、限界がある。進学率の上昇で入学者の学力がさらに低下した場合、入学前教育では追いつかなくなる。当然、カリキュラムも入学者に合わせて変更を迫られることになる。
社会人入試の現状はどうなっているか、ざっと見てみた。文部科学省の資料によると、平成18年度では、約7割に当たる483の大学が実施し、5711名が受験し2440名が入学している(平成18年度国公私立大学・短期大学入学者選抜実施状況の概要)。受験資格としては、概ね23歳~25歳以上が条件のようだ。中には21歳以上という大学もあった。せいぜい3浪までが限度と考えているのかも知れない。試験は、面接のみや面接と小論文というところが多いようだ。社会人といっても、実際に仕事をしているかは問題としてない。というか、問題にできないのだろう。家事手伝いや主婦も立派な仕事なので、これらを否定するような条件をつけることは難しい。となると、4、5年アルバイトで学費を稼いで、社会人入試で大学に入ると言う選択肢も悪くない。おそらく、学生確保にやっきとなっている大学の現状を考えれば、社会人入試と言う名の別の門戸が広がっていくのではないだろうか。つまり、19歳や20歳のような浪人生も社会人入試の対象に加えられ、浪人という言葉が死語となるかも知れない。もちろん、多くの人が社会人入試を希望するようになれば、社会人入試もそれなりに難易度が上がる。実際、社会人入試のための予備校も多数存在する。AO入試と社会人入試が主流になれば、ペーパーの学科試験はほとんど意味をなさなくなる。おそらく、大学受験資格のチェックとして、高校卒業程度の学力があるかの試験が行われようになるだろう。この高校卒業試験にさえ合格していれば、どこかの大学にはいつかは入れるようになるに違いない。無理に現役で入学する必要がなければ、社会人を経験してから大学に入ったほうが、はるかに効率よく学習できるのではないだろうか。事実、八洲学園大学の学生を見れば、現役入学より、社会人学生の方が、熱心で成績も良い。
社会人学生の割合が増えるにしたがって、社会人入試と18歳向けの入試との違いが注目される。この違いとは、難易度のことである。18歳で必死に受験勉強しなくても、一度、社会人になってから受験した方が簡単に入学できるのであれば、大学入学のために、そちらの道を選択する人が増えても不思議ではない。実は、これに近い現象が起こりつつある。編入学や帰国子女入試である。
編入学とは、専門学校、高等専門学校や短大から大学の1年生や2年生に入学することだが、大学に編入学することを目的とする専門学校が存在する。入試は難しくても、編入学試験は簡単という大学が多い。これは、需給の問題で、大学側としては、経営上の理由からも中途退学した学生分を補う必要があるが、編入学を希望する人が少ない。そのため簡単な試験で編入学を認めることになる。加えて、学校教育法(現在の第132条)の一部が改正され平成11年4月1日より専門学校(すべてではなく一定の条件はある)の修了者も大学編入ができるようになった。そこで、専門学校の中には、大学への編入学ができることを宣伝文句に加えるところが出てくる。さらに、編入学を目的とする学科を設置する専門学校も登場してきた。こうなると、高校生を灰色の受験勉強で過ごすのではなく、専門学校へ入学し、好きな専門的な勉強をしながら、大学編入を目指した方が良いと考える高校生が増えてもおかしくない。現在のところ専門学校からの昼間部への編入学者は国公私立あわせて2592名、高等専門学校からは2916名、短大からは8658名(平成19年度学校基本調査)と、受験制度の変革を促すほどの数ではないが、これらからの編入学に加えて、社会人入試が増加すると、大学入学のために浪人する人は、その意味を再確認することを迫られる。
カリキュラムが変われば、入試も変わってくる。そもそも、これまでの入試とは、多くの入学希望者の中から成績優秀な人を選抜するためのものだったが、誰もが大学に入学する時代になれば、成績の優劣ではなく、いかに大学のカリキュラムに適応した資質を持っているかが問題となる。大学の教育方針に合致しているかをチェックするのが入試の目的となる。そのためペーパーだけでなく、面接を重視するようになる。これが本来のAO(アドミッション・オフィス)入試だ。とはいえ、最低限の学力は必要なので、センター試験との併用ということになろう。ところが、センター試験を受験するのは、現役か、せいぜい20歳くらいまでの世代で、いわゆる社会人には無理な話だ。高校を卒業してから何年も経過しているのに、いまさら数学、世界史、化学などを勉強するのはつらい。ところが、進学率が上昇する過程で、社会人学生の割合も増加することが考えられる。そもども大学は18歳で入学する必然性はどこにもない。むしろ、一度、社会へ出てからの方が好ましいくらいだ。なぜなら、学習の目的が明確になるからである。例えば、コンピュータを学ぶにしても、それが社会でどのように利用されているかを知ってから学べば、学ぶことの必要性が切実となる。
