母たちの村
「女性たちはすばらしい 女性たちは生命を産む 女性たちに敬意を捧げよう」
「女性たちはすばらしい だからこう言いたい 女の子が生まれたら ぜひ教育を与えなさい
立派な花嫁になるために ぜひ学校にやりなさい」
「昔から言われてきたことがある でも割礼のことは書かれてはいない それは書かれてないのだ」
リズムを取りながら、女性たちが「割礼をしない自由」を勝ち取ったことを喜んでいます。。
先週末、私が見た映画『母たちの村』の最後のシーンです。
古くから「割礼」はアフリカをはじめ世界各地で行われてきました。女子割礼に関しては、これまでアフリカだけでも1億3千万人以上の女子が受けています。また、少なくとも毎年約200万人、毎日約6000人の少女たちが、この慣習を受けることが予測されています。28カ国のアフリカの国々と複数のアジアの国内で行われていますが、これらの国々からの移民受入国であるヨーロッパ諸国、オーストラリア、カナダ、米国で徐々に広がりつつあります。
女子割礼は、古くからの慣習として行われてきましたが、西洋医学にあるような無菌室で麻酔をかけて・・・といった手術とは異なり、木下や小屋の床など非衛生的な環境の中で医療知識を持たない人たちによってカミソリやナイフを使って行われます。小枝や動物の腸を糸として使ったり、泥や灰などを止血のために使うことを考えると、あまりにもひどい環境であることは想像に難しくありません。
女子割礼の慣習の目的にはいくつかあります。「伝統的慣習」「宗教的儀式」「女性の処女性と貞節を守るため(FGMを受けていないと結婚できない)」「女性の外性器は不潔で見苦しいから」「多産と安全な出産のため」などがあげられます。
『母たちの村』で描かれた西アフリカでも例に外れることなく、伝統的慣習として割礼が実施されてきました。しかし、主人公「コレ」は、割礼により2人の子どもを死産してしまった経験から、帝王切開で産んだ子どもには割礼を受けさせないという選択をしました。このうわさが広まり、女子割礼から逃げてきた4人の女の子が「コレ」に保護を求めるところからストーリーは始まります。
映画の中で、村の男性が女性からラジオを取り上げるシーンがあります。これは、社会との接点のない女性がラジオから情報を得ることで力を持つことを拒むアフリカの男性社会を描いています。「コレ」もラジオから「女子割礼」が宗教儀式でないことを教わりました。
村の男性たちは、割礼から逃げた子どもたちの保護を「コレ」に解かすように様々な手を使います。ラジオを取り上げたり、時に暴力すら振るうのです。しかし、女性割礼の現実を身をもって知っている「コレ」は決して男性たちに屈せず、子どもたちを守り抜くのです。
日本にも「慣わし」や「言い伝え」があるように、アフリカにもあります。それらに加え、「掟」や「呪い」といったものも根強く残っています。そして、時にそれらが、発展や開発を妨げる一要因でもあります。しかし、「割礼」に関しては、「女性に対する拷問である」などといった認識が広がり、「割礼」という言葉から「女性の外性器切除(Female Genital Mutilation: FGM)」という言葉が使われています。また、フランスに住むアフリカ系女性が娘に割礼を施したとして禁固2〜5年の判決を受けました。米国でもアフリカ移民の母親が娘に施した割礼で訴えられるという事件もおきています。
「割礼は伝統であり欧米の批判は文化的な帝国主義だ」とする主張する割礼推進派と、人権保護の観点による割礼廃止派に分かれています。映画の中でも、女の子の母親たちは、子どもたちに割礼を受けさせようとします。これは、割礼を受けていなければ結婚できないという慣習があるからです。
どの社会においても、どんなに力のない人たちでも…圧力や権力に屈することなく、勇気を持って社会を変えるために立ち上がる人たちは、とても美しいですね。自分の子どもと、そして、自分に保護を求めてきた子どもたち、そして、女性たちの権利を一人で守りぬいた「コレ」は、輝いて見えました。
<参考>
「母たちの村―moolaade―」ウスマン・センベーヌ監督作品、2004年、フランス・セネガル合作映画
World Health Organization 1997. Female genital mutilation: a joint WHO/UNICEF/UNFPA statement