8月11日の読売新聞、「大学全入時代 まだ先の話?」という小さな記事の話。
記事は、文部科学省が「大学全入時代」の到来は来春(2007年度春)にも到来するとの推測を発表していたが、それが大きくハズレた、という内容。文科省は「大学全入時代」の到来時期は改めて修正しないとのこと。推測がハズレた背景には、景気回復による家庭の経済状態の改善などで、現役生の大学志願者数が予想以上に増大したためと、文科省幹部は分析している。
今年の春は、69万3791人(全大学・短大の定員合計)/77万9711人(大学・短大志願者数)×100=89.0%という結果。文科省の当初推計は95.1%であったから、6.1%のズレということ。現役生の志願者の動向(分母)が不透明で、「大学全入時代」の到来時期はそれに左右されるとのことであった。
ハズレかアタリかは推測と結果との関係論であって、別に競馬予想などではない。問題は、現在の大学・短大進学率52.3%が今後さらに上昇した時に求められる大学教育の多様性をどう具現するかである。大学教育が大衆化した社会では、それだけ教育に金を投じる家庭(本人や両親)が増大する訳であるから、必然的に大学選択の選好性がこれまで以上にバラつくことが予想される。
つまり、「どの大学」かが重要であり続けるであろうが、その一方で、「どの学部」で「何を学ぶ」かという大学進学の論理が本格的に展開されてくるのではないかと思われる。志願者(おそらく両親も鋭く関与すると思われるが)の選好性の多様化が大学の多様化を進めていくのではないだろうか。
現在、アメリカの大学進学率は66.7%(2004年、National Center for Education Statistics)。日本の52.3%を大きく上回っている。アメリカが大学進学率50%を初めて超えたのは1965年(50.9%)であり、その後60%を超えたのは1990年(60.1%)であった。アメリカは相当早くから大学の大衆化時代に入っている。注目すべきは、アメリカでは「大学全入時代」という議論が積極的、前向きであったことである。クリントン政権期では、短大までを義務教育化するという「K-14」構想が浮上したほどであった。
アメリカの場合、私立大学が名門難関であり、州立大学が大衆的である。これは日本と完全に構造が逆転している。特に州立は大衆化が実に進んでおり、それが社会人教育(生涯教育)社会への移行を円滑にした。90年代は2年制の短期大学(コミュニティーカレッジ)から4年制への編入が急増した時期であったが、それも州立大学のあるべき姿として高く評価された。少なくとも、それが大学教育の「質の低下」を招くなどと、否定されることはなかった。
アメリカの大学は特に定員を設けていないので計測しえないが、1990年代初頭に「大学全入時代」に事実上移行していたと、個人的には考えている。そうした移行がなぜアメリカでは積極的に受け入れられたか。それは、その担い手が州立部門であったから意外に理由はない。
なぜ日本では「大学全入時代」の到来が問題となるのか。記事は、乱立した私立大学の淘汰を懸念しているようだが、ではなぜ国立大学の淘汰は議論されないのか。
この記事を呼んで、南オレゴン大学(州立)の恩師で当時Social ScienceスクールのDeanであったKempner先生が、なぜ学生の両親(納税者でもあるが)を対象とする大学説明会で熱弁していたかが理解できた。