「居場所」
先日、他の大学の教員をしている先輩とお互いの大学事情などについていろいろ話しをする機会があった。その折り、その先輩が語っていたことが印象深く心に残っている。曰く、「近年、ゼミの学生に対して意識して心がけていることがある。それは学生に〈居場所〉をつくってあげることで、これがあると無いのとでは大きな違いがある」とのこと。学生生活上の問題や、進路相談、学業の指導など、学生自身が大学のなかに居場所がないといろいろ問題が解決しにくいのだそうだ。逆に学生が大学のなかにどのような形であれ自分の「居場所」がある学生は活き活きとしているとのこと。
「居場所」の重要性はキャンパスにおける学生生活に限ったことではないだろう。なるほど、われわれが日常生活をおくるにも自分の居場所がない状態は何か事をやり遂げるにもやりづらいであろうし、精神的にもかなり苦しい状態になることは容易に想像がつく。職場やある集団への参与など、特定の加入式や契約を経たのちに集団内でそこに居ることが許される場所や、友人関係のなかでの身の置き所など、「居場所」にはいろいろなレベルが考えられるが、ともあれ、われわれはこのいろいろな「居場所」をベースにしながら生きているといえるだろう。人間にとってそこに自分がいることが許されている「居場所」がないということほど生きづらいことはない。
またこの「居場所」とはおそらくもう少しいうと、単にそこにいることが契約や権利でゆるされているということで居場所として十分かという必ずしもそうはいえない。自身がそこにいることに居づらさを感じればもうそこは<居場所>であることが危うくなっている。居づらさをよく考えていくと、どのような形でそこにいることが「許されているか」ということがおそらく重要な問題なのだろう。そこにいる見返りが期待され、評価や値踏みがその人になされる場合の許され方だと、「居場所」としては恒に危うい状態となってしまうであろう。「居場所」の重要な役割はこの危うさや不安からの避難場所であることにこそあるのであり、不安定な要素が入り込まない、欠点や不足も含めてトータルに自己の存在が受け入れられる場であるからこそ「居場所」になり得るのだともいえる。おそらく先の学生達が感じているのはこの種の「居場所」であろう。無条件に自己の存在が認められ、受け入れられる場ということでいうと、だれでも気づくことであるが、「居場所」の典型としてやはり家庭という場はひとつのモデルになるだろう。(この、自己の存在全体が受け入れられているはずの「居場所」である家庭において、値踏みや評価がはいりこんでくると悲劇である。)
