一滴の水
この原稿を書いている今日、横浜では久しぶりの雨が降っています。大学ビルの軒先から落ちる雫を眺めていますと、「一滴の水」が人間を宗(もと)から変えた話を思い出しました。今日は、皆さんにその話を紹介しながら、教育原点とは何かということを少しばかり探求してみたいと思います。
明治初め頃、岡山県の曹源寺に宜牧という小僧がいました。ある晩、曹源寺の儀山和尚は入浴中に湯加減を調整しようと、弟子の宜牧に水を持ってくるように頼みました。小僧は桶底に残っていた水を捨て、すぐに井戸の冷たい水を汲んで浴室に走りました。
師匠が「桶に残っていた水はどうした」と尋ねると、小僧は「冷たい水を汲むために残っていた水は捨てました」と答えました。すると儀山和尚は「馬鹿者!」とその小僧を怒罵したのです。小僧はなぜ自分が怒られているかも解らないまま呆然としていると、和尚は「残った水を雑草や花木にあげれば、雑草や花木も生きるし、その残っていた水も生きるではないか。そんな簡単なことにも気づかない者がどんなに一生懸命修行しても何の役にもたたん!」と更に一喝。
十歳のこの少年はこの日から、真剣に修行に打ち込んだそうです。この少年こそがのちに京都五山一位である天竜寺管長となられた滴水宜牧禅師です。禅師の道号を滴水というのも、少年時代の風呂場でのこの出来事が大いに関係していることは言うまでもありません。
この話からもわかるように、日常生活の真只中で繰り広げられる実践教育こそが根源的真理を説いた聖教古育であったと改めて痛感させられます。また、真の教育というのは、権威、学歴、身分、男女、といった分別知の鎧を全く必要としないということも事実だと思います。それは、上記の滴水宜牧禅師、「微笑」によって弟子に法を継がせた釈尊、対話で弟子たちを真理へと導いたプラトンなどといった偉大な古哲者達の教育手法を見れば明らかです。
人間の尊厳性たるものを根本的に樹立することが教育であるならば、それが理想だけで終わってはならないのも教育です。「如何に日常生活でその理想を実践できるか」ということが、正に今、我々に問われていることではないでしょうか。
