「知っておいた方がよいこと」
世の中には、知らずにうっかり使ってしまったために、相手にとんでもないイメージを抱かせたり、思いがけない誤解を与えたりすることがあるものです。運よく、それが誤解だったと分かる出来事でもあればよいのですが、そのようなチャンスにも恵まれなければ、急に予期せぬ論争に巻き込まれたり、知らぬ間にとんでもなくひどい人物というレッテルを貼られてしまったりする危険性があるので、注意したいものです。
そこで、今回は知っておいた方がよいことの例として「子ども」の表記についてお話したいと思います。少し前から教育の分野では「子ども」と表記するのが一般的となっておりました。今日、「子ども」という表記はすっかり定着している感があり、取り立てて説明する必要性も感じていなかったのですが、先日、今期新設科目である「子どもの思想史」(S)で、学生さんから質問をいただいたのをきっかけに、皆さんに確認してみましたところ、案外意識せず用いていた方が多くいらっしゃいましたので、問題を簡単に整理しておくことに致しました。
(1)、まず、「子ども」という表記は、次のように考える人々によって提唱され、使われて参りました。①「供」には「お供」、「お供え」の意味があるため、子どもを大人の従属物ではない独立した一個の人格としてとらえるならば不適切な表記である。②「子供」の「供」はあて字であるから使うべきではない。③文章中に漢字が多すぎると固いイメージになるため、適度に平仮名を交えて書く方がよい。
(2)、それに対し、「子ども」ではなく「子供」と表記すべきだとして、「子ども」と書くことに反対する人々がおります。「子供」という表記を支持する人たちは、次のような考えにおいて、「子供」と表記し続ける構えを示しております。①「子供」は「子」に複数の接尾語がついたものであり、必ずしも大人の従属物として子どもを捉える意味合いが含まれているわけではない。②「子供」は「コドモ」という不可分の熟語として成立しているが、「子ども」は「交ぜ書き」であり、熟語としての単語構造を損なっている。③「子」と「ども」を分離させて表記することは、かえって「ガキドモ」といった蔑視的意味合いを付与させることである。
(3)、さらに、(2)のような考えに対して、「子ども」という表記を支持する人たちは、次のような反論のもと、やはり「子ども」と表記する姿勢を保っております。①今日、「子供」の「供」における複数の意味合いは失われてしまっている。②「当用漢字付表」(一字一字の音訓として挙げ得ない熟字訓を掲げたもの)に「子供」は入っていない。③「子ども」を「子」と「ども」に分離させることが即「ガキドモ」の意味につながるとは思われない。
(4)、こうなると、いっそ「子供」でも「子ども」でもなく、「こども」と書こうという人たちも出てくると思われますが、すべて平仮名で表記していくと文章中に埋もれて読みにくくなってしまうということもあり、今のところ、「子ども」と表記する人が圧倒的に多くなっているというわけです。
さて、私自身はどうかと申しますと、「子どもの思想史」(S)を担当しているくらいですから、言うまでもなく「子ども」という表記を使っております。理由は(1)や(3)の他に、次のようなことが挙げられます。①今日、「子ども」という表記が定着しているなか、敢えて「子供」という表記を用いるということは、「子ども」という表記に反対の意を表明することになり、「子供」と表記することに積極的な意図、こだわりを見て取られる可能性があるが、それは必ずしも本意ではなく、とくに固執していないこと。②むしろ、「子ども」という表記が、子どもを大人の従属物として捉える従来の「子供」観とは一線を画したい、新しい「子ども」観を確立したいという考えのもと作り出されたものであるとするならば、この言葉にはその成立自体に、「子どもに対する大人の眼差し」を見直そうとする姿勢が含まれているとみることができ、それは本講座の趣旨に照らしてみても適当と思われること。
個人的には、言葉というものは長い歴史の中で多かれ少なかれ変化していくものと考えておりますから、上記のごとき問題は、どれが「正しい」表記なのかという問題として考えるのではなく、今日、私たちの間ではどの表記を使うことで「合意」するのかという問題として考えるべきだと思います。そうしてみると、どの表記にも使用する「可能性」は等しく残されているわけであり、結局のところ、いずれを使うのかは自分次第ということになると思います。ただ、次のことだけは確かなことであり、知っておいた方がよいでしょう。①「子ども」の表記をめぐる上記のような議論を知らぬまま、うっかり用いていると、冒頭にも書きましたように、急に予期せぬ論争に巻き込まれたり、知らぬ間にとんでもない人物というレッテルを貼られたりする場合がある。②公文書、とくに教育関係の書類で表記するときは、「子供」ではなく「子ども」と書くのが一般的であり、「子供」と書くと直される可能性が高い。③それでも敢えて「子供」と書きたいのであれば、論争に発展する可能性もあるため、あらかじめ自分なりの根拠を用意しておいた方がよい。・・・と、まぁ、いろいろ書きましたけれども、最終的に論争をおそれて言葉を使わなくなることだけは避けたいものです。