2008年10月アーカイブ

 自己主張

 「育児国際比較論」の教科で、受講生のレポートを読んでいると、考えさせられるレポートに出会うことがある。アメリカに在住されていた藤井依子さんは、お子さんが3歳で現地の幼稚園に入った時の事を書いていらっしゃった。幼稚園に提出する書類に子どもの性格がLeadかFollowかを選択する欄があったそうである。アメリカでは、子どもの時からリーダーシップがとれることが大切なのである。また、入園してから、"Show and Tell"というプログラムが毎日のように繰り返されたという。例えば、"Something red"という課題が与えられ、子どもは家から気に入りの赤い色の物を持って来て、先生や友達の前でそれを見せながら説明するというものである。つまり、幼少時から言いたいことを人前で堂々と主張する練習を繰り返し行うのである。
 ある文献によると、ドイツの幼稚園でも「話し合いの時間」があり、先生がその日何をしたいかを園児一人一人に聞き、それに沿って一日の大まかな行動計画を立てる幼稚園がある。つまり、自己表現に長けた人間を育成するのである。
 では、日本の幼稚園はどうであろうか?私の知る限りでは、そのようなプログラムはあまりないように思われる。文科省が大分前に行ったアンケート調査から、幼稚園で重視している経験や活動を5位まで揚げると、1、当番・係り活動 2、運動会 3、ごっこ 4、砂遊び 5、製作活動 である。これを見ると自己主張より、責任感とか運動能力とか協調性等にウエイトが置かれているように思われる。我が国の幼稚園も上記のようなプログラムを少々導入して自己主張の機会を設けてはどうであろうか。
 かつてドイツで、ドイツ語研修を受けたことがあった。一緒に参加した日本人は、皆話すことが不得手であった。それはドイツ語力もさることながら、幼少時代から自己を表現する訓練がなかったからではないだろうか。

  「知っておいた方がよいこと」

 世の中には、知らずにうっかり使ってしまったために、相手にとんでもないイメージを抱かせたり、思いがけない誤解を与えたりすることがあるものです。運よく、それが誤解だったと分かる出来事でもあればよいのですが、そのようなチャンスにも恵まれなければ、急に予期せぬ論争に巻き込まれたり、知らぬ間にとんでもなくひどい人物というレッテルを貼られてしまったりする危険性があるので、注意したいものです。

 そこで、今回は知っておいた方がよいことの例として「子ども」の表記についてお話したいと思います。少し前から教育の分野では「子ども」と表記するのが一般的となっておりました。今日、「子ども」という表記はすっかり定着している感があり、取り立てて説明する必要性も感じていなかったのですが、先日、今期新設科目である「子どもの思想史」(S)で、学生さんから質問をいただいたのをきっかけに、皆さんに確認してみましたところ、案外意識せず用いていた方が多くいらっしゃいましたので、問題を簡単に整理しておくことに致しました。

 (1)、まず、「子ども」という表記は、次のように考える人々によって提唱され、使われて参りました。①「供」には「お供」、「お供え」の意味があるため、子どもを大人の従属物ではない独立した一個の人格としてとらえるならば不適切な表記である。②「子供」の「供」はあて字であるから使うべきではない。③文章中に漢字が多すぎると固いイメージになるため、適度に平仮名を交えて書く方がよい。

 (2)、それに対し、「子ども」ではなく「子供」と表記すべきだとして、「子ども」と書くことに反対する人々がおります。「子供」という表記を支持する人たちは、次のような考えにおいて、「子供」と表記し続ける構えを示しております。①「子供」は「子」に複数の接尾語がついたものであり、必ずしも大人の従属物として子どもを捉える意味合いが含まれているわけではない。②「子供」は「コドモ」という不可分の熟語として成立しているが、「子ども」は「交ぜ書き」であり、熟語としての単語構造を損なっている。③「子」と「ども」を分離させて表記することは、かえって「ガキドモ」といった蔑視的意味合いを付与させることである。

 (3)、さらに、(2)のような考えに対して、「子ども」という表記を支持する人たちは、次のような反論のもと、やはり「子ども」と表記する姿勢を保っております。①今日、「子供」の「供」における複数の意味合いは失われてしまっている。②「当用漢字付表」(一字一字の音訓として挙げ得ない熟字訓を掲げたもの)に「子供」は入っていない。③「子ども」を「子」と「ども」に分離させることが即「ガキドモ」の意味につながるとは思われない。

 (4)、こうなると、いっそ「子供」でも「子ども」でもなく、「こども」と書こうという人たちも出てくると思われますが、すべて平仮名で表記していくと文章中に埋もれて読みにくくなってしまうということもあり、今のところ、「子ども」と表記する人が圧倒的に多くなっているというわけです。

 さて、私自身はどうかと申しますと、「子どもの思想史」(S)を担当しているくらいですから、言うまでもなく「子ども」という表記を使っております。理由は(1)や(3)の他に、次のようなことが挙げられます。①今日、「子ども」という表記が定着しているなか、敢えて「子供」という表記を用いるということは、「子ども」という表記に反対の意を表明することになり、「子供」と表記することに積極的な意図、こだわりを見て取られる可能性があるが、それは必ずしも本意ではなく、とくに固執していないこと。②むしろ、「子ども」という表記が、子どもを大人の従属物として捉える従来の「子供」観とは一線を画したい、新しい「子ども」観を確立したいという考えのもと作り出されたものであるとするならば、この言葉にはその成立自体に、「子どもに対する大人の眼差し」を見直そうとする姿勢が含まれているとみることができ、それは本講座の趣旨に照らしてみても適当と思われること。

 個人的には、言葉というものは長い歴史の中で多かれ少なかれ変化していくものと考えておりますから、上記のごとき問題は、どれが「正しい」表記なのかという問題として考えるのではなく、今日、私たちの間ではどの表記を使うことで「合意」するのかという問題として考えるべきだと思います。そうしてみると、どの表記にも使用する「可能性」は等しく残されているわけであり、結局のところ、いずれを使うのかは自分次第ということになると思います。ただ、次のことだけは確かなことであり、知っておいた方がよいでしょう。①「子ども」の表記をめぐる上記のような議論を知らぬまま、うっかり用いていると、冒頭にも書きましたように、急に予期せぬ論争に巻き込まれたり、知らぬ間にとんでもない人物というレッテルを貼られたりする場合がある。②公文書、とくに教育関係の書類で表記するときは、「子供」ではなく「子ども」と書くのが一般的であり、「子供」と書くと直される可能性が高い。③それでも敢えて「子供」と書きたいのであれば、論争に発展する可能性もあるため、あらかじめ自分なりの根拠を用意しておいた方がよい。・・・と、まぁ、いろいろ書きましたけれども、最終的に論争をおそれて言葉を使わなくなることだけは避けたいものです。

家庭教育研究会会報2号

 『八洲学園大学家庭教育研究会会報』第2号をお届けします。

 内容は、第2回研究・活動報告会の報告要旨です。ぜひお読みください。(第2回研究・活動報告会は、2008年7月30日(水)に、八洲学園大学家庭教育課程編『インターネット大学で学ぶ家庭教育学』(勉誠出版)出版記念企画」として、八洲学園大学4A教室で開催されました。)

 なお、次回の研究・活動報告会は、2008年11月下旬に開催する予定です。日時とプログラムについては、追って家庭教育課程ブログでお知らせいたします。

 報告者も随時募集しておりますので、発表していただける方は、家庭教育課程(home-edu@yashima.ac.jp)までご連絡ください。

 ※八洲学園大学家庭教育研究会は、本学の学生・卒業生・教員が自由に参加する会です。入会手続きも会費も不要です。

会報第2号のダウンロードはこちらから.pdf

タイトル:「相互依存性」と「お世話になっております」

 あるジャーナルの論文を翻訳する機会があった。ロシアの研究者カレーロワ氏による日本の労働倫理に関する論文である。「日本仏教の「報恩」の教理と労働倫理形成におけるその役割」というのがそのタイトル。内容はタイトルどおり日本の報恩の観念が歴史上どのように形成され、日本人の労働観や労働倫理に影響を及ぼしているかを考察している。氏によれば、日本の労働倫理は日本の神道的世界観や儒教思想の影響もあるが、仏教の報恩思想の影響が大きいとされ、仏教における報恩の教理はもとは「心地観経」「正法念処経」のなかにあったものであるが、その報恩の思想が鎌倉の祖師などによって取り上げられそれがその後日本の労働倫理に影響を与えたとされる。個々の存在は個をとりまく一切の関係性のなかで捉えられ、恩のなかで存在するのだという視点があたえられたのだという。そして、仏教の「報恩」の教えが儒教の「義務」の観念と最終的に統合され、特に「親への報恩」の必要性は「孝行」の原則と結びつきながら、「国王への報恩」は主君への臣下の「忠誠」としてとらえられたとされる。近世の多くの書物が、報恩の原理を日常生活で具体的に実践していくよう説くようになっていったとされる。近世初頭の鈴木正三などはこの報恩観における相互依存的な世界観を基調に、労働そのものが仏道修行であると説くにいたったとしている。論文ではこのような思想史的な変遷を経た労働倫理観が現在のグローバル化した日本社会においても有効にはたらき、日本の労働倫理に特殊性を与えているとしている。
 翻訳をしながら、なるほど、自分をとりまく人々への恩の感じ方などもこのような報恩観の結果なのかと思いながらも、秩序や調和を重んじた日本社会の日常性における宗教的次元の一端を見るような感覚を覚えた。個人間の社内や商用メールなどで使用される「お世話になっております」という常套句にもこのような倫理観が背景にあるのかも知れない。
また論文中の引用で二宮尊徳の著述に触れ得たのも収穫であった。
二宮の人間の相互依存的なあり方に対する考え方は、家や共同体、社会の相互依存性だけでなく、そのつながりが過去・未来へと連続するものであることを示している。『二宮翁夜話』(『日本思想大系52』)に、中村という商人に対してなされた次のような忠告がある。
「あなたは大家の子孫に生まれ、祖先の余光によって格式を賜り、人の上に立って、人にも尊敬されているが、(中略)あなた自身を反省してみるがよい。あなたの身が用に立つものと思うか。(中略)実は用に立つものではない。ただ先祖の積徳と、家柄と格式とによって用に立つ者のように見え、人にも尊敬されるのである」。
 また、高野という男を説諭し、こう述べる。「自分の勢いが世のなかに行われても、自分の力と思ってはいけない。親や先祖から伝え受けた地位や俸禄の力と、拝命した官職の威光とによるものだからだ。祖先伝来の地位や俸禄の力か、官職の威光がなければ、どんな人も、弓勢が尽きた矢か、火薬力の尽きた鉄砲玉と同じで、草むらに落ちて、人々に馬鹿にされるようになるだろう」。
 この件は家の連続性とその積徳を次代につなげる責任があることを説いたものだが、家人や関係する人々との相互依存性(恩)の重要性を指摘しているものとしても読める。社会的に重要な立場にあるものが自利自養に奔り世の糾弾を浴びる事例にも当てはめることができる。報恩の倫理が権力側にとって都合良く支配の維持装置として使われるおそれがあることも否定できないが、自他のつながりが単なる契約という関係性を超えた相互依存的な世界観のなかで把握される視点はやはり重要だろう。社会や集団内において重要な立場にあるものこそ「お世話になっている」ことを忘れてはいけないのである。

インターネット大学にリアルの入学式。リアルの付属高校に入学式がない

 八洲学園大学の2008年秋学期生入学式が、9月4日挙行されました。インターネット大学を標榜する当大学ですが、入学式は毎年、学長、教官列席の元に横浜のキャンパスにて厳粛に進められてゆきました。遠くは青森県から式に参加する新入生もいます。八洲学園大学らしい式次第として、在校生・卒業生からのお祝いのメール紹介が組まれ、100件近くのお祝いメールをネット掲載するとともにいくつかが披露されました。当然、インターネット大学ですので、インターネットで式の模様は在宅の新入生、在校生ライブ配信され、チャットや板でも盛り上がっております。教官も式後の懇親会の合間に、チャット書込みにフォロを入れたりと、リアルとバーチャルの融合が、厳粛さと親密さを保ちなが進められてゆきました。式に参加した私には、在校生の祝辞の中での「人と人のつながりを大切にする」という言葉が大変印象的でした。また、その後の懇親会には手作り感たっぷりの余興(ぜひみなさんも参加して体感してください)が用意されていました。
 さて、その一方で付属高校である八洲学園大学国際高等学校は、入学式を行いません。というのも、沖縄に校舎があり、全国47都道府県から生徒を集め、年一回一週間程度の合宿制スクーリング広域通信制高校であり、入学式のためだけに沖縄に集うことが負担が大きいからです(そのかわり、春秋の卒業式は地域や県の来濱臨席のもと、なみだなみだの感激的な卒業式で、在校生の参加希望が殺到します。)
 物理的に離れていても、離れているからこそ繋がろうとする、そして繋がってしまう人間のハートってすごいですね。

 八洲学園大学公開講座「ファミリー・コミュニケーション運動 -子どもへの理解のために-」(2008/9/26~2009/1/17)、第2回目がもうすぐ開講になります。内容は、以下の通りです。
 

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