2008年12月アーカイブ

 「中高生の武道スポーツと人間形成(演習)」という授業を担当しています。このテーマについてはさまざまな角度からのアプローチが可能だと思うのですが、私の基本的研究スタイルが文献学的な手法によるところもあって、いま、この授業では、中高生の年齢期の子どもに関わるような各種文献資料、体育に関わる資料などを中近世期から近現代にかけて講読しています。
 その中で、貝原益軒の『和俗童子訓』を読みました。この文献は、我が国最初のまとまった教育論書とも言われていて、子育てや教育方法などについてなかなか示唆に富む内容を含んでいます。勿論、時代的には封建武士社会でのものなので、その考え方をそのまま現代社会の教育や育児に当てはめることはできませんが、それでも、益軒の考えを一つのきっかけとして、現代の家庭教育のあり方について考察を深めていくことができました。
 印象に残った一文として、「凡(そ)小児の善行あると、才能ある〔と〕をほむるべからず。」(岩波文庫p218)というものです。要するに、「子どもが何か善い行いをしたとしても、またなんらかの才能の片鱗が見えたとしても、それを褒めてはならない」というのです。益軒は、褒めることによって、ごう慢になり、心のあり方が損なわれ、自分のおろかさや不徳にも気づかずに、自分に知力や才能があってそれ以上の努力をしなくても事が足りると考えて、学問を嫌い、人に素直に教えをこうこともなくなる、と考えました。
 現代の教育では、「褒めて自信をもたせる」「褒めて長所を伸ばす」といった「褒める教育」が主流を占めていて、「褒めること」は子どもにとって常によいことであるように考えがちですが、そこには、マイナスの側面も潜んでいることに改めて気づかされました。
 授業の中では、「そうはいってもやはり現代の教育において褒めないということは考えられないし、褒めることによるメリットは大きい」という考えが示され、そこから、ただ漫然と褒めるのではなく、どの行為を褒めるのか、そして、褒め方にも一定の工夫や配慮が必要である、というところまで考えを進めることもできました。

脚下照顧~キェルケゴールを参考にして

 今回は徒然なるままに、キェルケゴールを参考にしながら私自身の脚下(生き方)を照顧してみようと思います。彼は「如何にして真のキリスト者になるか」ということをライフワークにし、実存主義を唱えた哲学者です。私はキェルケゴールの主張した「美的段階」「倫理的段階」そして「宗教的段階」へとステップアップする人間の段階的生き方に何故か惹かれます。その理由は、性別、年齢、人種などといった分別知に全く左右されない人間構造の普遍性というか共通性がそこに見え隠れするからなのかもしれません。
 最初は「美的段階」です。このステージに生きている人達は次から次へと物質的肉体的な享楽を追求します。一番分かりやすい例で言えば、健康や美の実現などを重んじる人達がこのタイプです。「身体的健康」や「美しさ」というものは人間にとって理想の<かたち>ですが、これらはどんなに追い求めても限界があるばかりでなく、日々衰えていくものと言って良いでしょう。人間の唯物的欲望は無尽ですが、実はそれ自体が背反的である故に、その目標先には挫折しか待っていないということにはなかなか気付きません。この事実に気が付くと、人間は倫理的段階へとステップアップしていきます。
 「倫理的段階」では、人間は<義務>という名の下(もと)に倫理的に物事を理解しようとします。しかし、倫理的に生きようとしている人が、過ちを犯したとき反省して倫理的に成長したとしても、結局それは元々自分に潜在的に存在していた考えを呼び起こしただけで、心をただ入れ替えたに過ぎないだけということになります。また、時代の流れによって生まれた倫理は時代が変われば必ず崩れていく結末が待っていることは歴史的にも証明されています。つまり、この倫理的段階の生き方には、普遍性・永遠性が欠如するので<真理>ではないというわけです。そこで、人間は倫理的段階には満足せず更に<真理>を追求しようとします。
 「倫理的段階」を通過すると、最後に「宗教的段階」に到達します。ここでは相対的目的には相対的に関係し、絶対的目的には絶対的に関係するという仕方で両者を混同させないと同時に、その二元論的世界を超越した場では交わることの無いはずの両者が実は根底部分で関係しているということが自覚可能となります。キェルケゴールの主張する「質的弁証法」はまさにこうした「宗教的段階」を理論構築した方法論といえるでしょう。キェルケゴールは熱心なキリスト教徒だったために「宗教的段階」という言葉を使ったと思いますが、宗教者でなければ別に「宗教的」という言葉でなくても、「実存的」「己事究明的」「自己転換的」などといった言葉に代替しても良いと思います。
 さて、人間誰もが死ぬに死ねない苦しみや絶望など深刻な問題を(大小の差はありますが)抱えて生きています。これらの問題は自分以外の力でもって解決することはできません。なぜなら、それはあくまで自己によってしか越えられない問題だからです。知人や家族に相談してアドバイスは訊けますが、どんなに真剣に相談にのってくれても所詮それは他人事です。歯が痛い時、自分の代わりに誰が歯医者に行ってもらって治療しても、自分の歯痛は治らないのと同じです。故に、人間は実存的に自己を見つめ「自分は何のために生きているのか」という疑問に対して自分なりの応えを導くことが人生の最大の課題となるのです。換言すれば、実存究明(キェルケゴールの述べるところの「宗教的段階」)に徹してこそ、初めて人間は自分の存在の根本を転換させることができるということです。
 ところで私の場合、上記三つのどの段階に生きているか自問自答してみると、上記の「美的段階」と「倫理的段階」の間を右往左往しているような気がします。「倫理的段階」と「宗教的段階」の間には大きな隔たりがあり、そこにはもしかしたら「超越」という飛躍が必要なのかもしれませんが、まずはその大きな隔たりを越えていくためにも、どんなことがあっても自分自身であり続けなければならないという自覚(キェルケゴールの言葉を借りるなら「絶望の自覚と反省」)を実現し、理想とかけ離れた自分のあり方を自分自身に問いつめ、そのギャップを埋めていくことから始めてみようと思います。「実存的」「己事究明的」「自己転換的」生き方に少しでも近づきたいと思う今日この頃であります。

歴史と文学の会編『親子の愛と憎しみと』(勉誠出版)について

 新刊本の紹介です。歴史と文学の会編『親子の愛と憎しみと』(勉誠出版)という本が11月に刊行されました。私も執筆させていただきました。
 この本は、親子の愛と憎しみについて論じた小論24編を編んだものです。古今東西にわたる様々な親と子の愛憎物語を読み解き、それを通じて親子の関係を見つめなおそうという趣旨です。
 総論から始まって、文学・芸能、近代文学、宗教・哲学・歴史・伝説、さらには漫画にも論じ及んでいます。どこから読んでもよく、一編一編が気軽に読み切れる長さで書かれています。
執筆陣も多彩ですが、本学関係では、水野建雄副学長の「親子の愛憎の根底にあるもの-母親の存在をめぐって」、中田雅敏家庭教育課程長の「芥川龍之介に見る親子の情愛」、志村有弘客員教授の「愛と憎の物語」、三野恵非常勤講師の「苅萱と石童丸-親子にして師弟」が収載されています。
 私は、古代ギリシアの哲学者アリストテレスをとりあげ、その実生活と思想の中に親子の情愛がどのように位置を占めているかを論じてみました。この論稿を書きつつ、今更ながら人の思い・思想が実体験と深く結びついているという認識を深めました。
 アリストテレスは、親子の情愛こそがすべての善き人間関係の基礎であると考えました。そして、その親子の情愛が発展したところに種々の人間関係に応じた親愛がうまれ、それが大きくは国民・市民どうしの親愛ないしは友愛となって、人々の絆をかたちづくり、その関係を良好に保ち、国家の秩序と共同性を保持する、とまで考えました。
 そのとき、人間どうしの情愛を深め、発展させるのに必要なのは、人と人との関係性(つながり、きずな)を認識すること、そして相互の信頼関係を築く契機となるような試練を乗り越えていくことだと考えたようです。
 これ以上のことは本で読んでいただくこととして、そんなアリストテレスの論著もその一つである古典、そして宗教的伝統は、どの時代においても、時代をこえて変わらぬ大切なことを教え、当の時代の趨勢がはらむ問題を人々に気づかせ、それを修正する方向を示してくれてきた、ということを確認しておきたいと思います。
 『親子の愛と憎しみと』は、勉誠出版のサイトで購入できます。

何もないありがたさ

 日本中がバブル経済期の好景気に浮かれていたころに補導した一人の中学生のお母さんの話に感動したことがあります。少年の非行は、夜家を抜け出して友達とオートバイを盗んで無免許運転していた程度の内容なので詳細に覚えてないのですが、少年の後で面接したお母さんの話は今でもはっきりと覚えています。
 少年の家庭では、お父さんが当時の多くの人が陥ったように多額の借金を作ってしまい、返せずに行方不明になっていました。後に残された家族は借金取りの嵐に巻き込まれ、全てを失ってしまい、公共料金さえ払えない時が重なり、電気まで止められてしまったのです。非行はそのころのことだったのです。家族は仕方なくローソクで灯りを取って生活したのです。
 そうしたらそれまで消えかかっていた家族の絆が戻ってきたのです。以前よりも共に過ごす時間が多くなり、自然に会話が弾み、笑顔すら見られるようになったのです。そしてお母さんは「何もない生活は家族一人一人と向き合う時間が持てて、かえってありがたかったですよ」と笑顔すら浮かべて話されたのです。
 ・・・何もないことの幸せ。次々に現れる文明の利器に囲まれて、とかく人と人との親密な結びつきをないがしろにし勝ちな生活がいかに大事なことを忘れさせているかを、改めて気づかせてくれる言葉でした。

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