2009年2月アーカイブ

「人は一人では生きられない」―― 姜尚中『悩む力』を読んで

 家庭教育の目標は子どもを、社会の一員として承認される一人前の大人に育て上げることだ、と書いたことがあります。社会における自分の役割を自覚してそれを果たす(働く)ことによってはじめて、他者から働きが承認され、さらには自分の存在そのものが承認される、ということです。ここで、人の存在にとって他者から承認されるということがどんなに大切なことかを、考えてみたいと思います。
 さて、現在大変よく読まれている本に、姜尚中氏の『悩む力』(集英社)という本があります。長期にわたってベストセラーに入っているもので、たしかに確固たるメッセージが強く伝わってくる実に読み応えのある本です。
 この本のなかの一節に次のような記述があります。
 三十代半ばのホームレスの男性が、市役所からもらった道路清掃の仕事に従事するようになってはじめて、人から声をかけられたと言って、声を詰まらせたというのです。それまでは「生まれてこなければよかった」と思い、どんなことがあっても涙が出ることはなかったのに、「おはよう」「ご苦労さま」とねぎらいの声をかけられて、これまでとは違って彼は、ちゃんと社会復帰すれば生きていてよかったと思うのではないか、普通の人間としての感情が戻ってきたのではないかと言って、また声を詰まらせたそうです。
 姜尚中氏は、この話を紹介した後で、「人が働く」という行為の一番底にあるものは何かと言えば、それは、「社会の中で自分の存在を認められる」ということだと述べています。人が一番つらいのは「自分は見捨てられている」「誰からも顧みられない」ことだと言っています。「社会で生きるためには他者から何らかの形で仲間として承認される必要があります。そのための手段が、働くということなのです。働くことによって「そこにいていい」という承認が与えられる」。
そういえば、かつてマリア・テレサがインドの貧民街で救済活動をしたときに、何よりも強く人々に呼びかけたのは、癩の克服でも貧困からの脱出でもありませんでした。自分はこの世に不要な見捨てられた存在だという意識を一掃すること、そして自分は望まれてこの世に生まれてきたかけがえのない価値をもっているのだという、自尊の感情をもつことだったといわれます。そう聞いたことがあります。人間としての尊厳です。
 さて姜氏の結論はこうです。「『人は一人では生きられない』とよく言います。それは物理的、経済的に支えあわねばならないという意味だけでなく、哲学的な意味でも、やはりそうなのです。自我を保持していくためには、やはり他者とのつながりが必要なのです。相互承認の中でしか、人は生きられません。相互承認によってしか、自我はありえないのです」。姜尚中氏の『悩む力』は、「相互承認」という確固たるメッセージを伝えるものであり、「相互承認」の書であることを忘れてはならないと思います。
 「人は一人では生きられない」ということを相互承認論として哲学的に考えぬいた哲学者としては、ドイツの哲学者ヘーゲルが有名です。「働く」ことを通して他者とのつながりと相互承認を求めていくことは人間存在の本質的な活動だと、ヘーゲルは考えました。つまり、人と人が相互承認によって結びつくような社会はいかに可能かということを、人間の生きる本質的活動として考えたのです。ヘーゲルの主著『精神現象学』は、個々人の存在が次第に互いに承認し合って共同の社会生活を営むにいたるまでの過程を描いています。その場合ヘーゲルが強調するのは、相互承認を根底にあって可能ならしめる人間の活動は「労働」であるということです。働くことによってしか相互承認を得ることはできないのです。しかしまた、相互承認は簡単に成立するものではないということも言っています。人間が共同社会の中を生き抜くこと自体が相互承認への過程ですが、しかしその過程をヘーゲルは「承認をめぐる生死を賭けた戦い」とさえ呼んでいます。いずれにしても、社会生活の成立のためには相互承認が不可欠だということは、孤独をいやすというような願望や実存的な感傷などの次元のことではなく、まさしく、「相互承認の中でしか人は生きられない」という意味で、人間存在の本質的なあり方だということです。翻って考えれば、働く訓練をするということは子どもの社会性にとってもきわめて大切なことだといえます。

家庭教育研究会会報3号

『八洲学園大学家庭教育研究会会報』第3号をお届けします。

 内容は、第3回研究・活動報告会の報告要旨です。ぜひお読みください。(第3回研究・活動報告会は、2008年11月24日(月)に、八洲学園大学6A教室で開催されました。)

 なお、次回の研究・活動報告会は、2009年3月下旬に開催する予定です。日時とプログラムについては、追って家庭教育公式ブログでお知らせいたします。

 報告者も随時募集しておりますので、発表していただける方は、家庭教育専攻(home-edu@yashima.ac.jp)までご連絡ください。

 ※八洲学園大学家庭教育研究会は、本学の学生・卒業生・教員が自由に参加する会です。入会手続きも会費も不要です。

会報第3号のダウンロードはこちらから

郷土文学講座のご案内 講師:中田雅敏教授

 

 埼玉県の春日部市郷土資料館企画として、「郷土文学講座」が開講されることになりました。一般市民の方々を対象に、郷土ゆかりの文学を紹介する講座です。
 本学の家庭教育専攻中田雅敏教授が講師を担当されますので、ご案内申し上げます。

     1.日時: ① 平成21年2月28日(土) 午後2時~3時30分
            ② 平成21年3月1日(土) 午後2時~3時30分
     2.場所: 埼玉県春日部市粕壁東3-2-15
                   ℡ 048-763-2455
            春日部市教育センター2F 視聴覚研修室
     3.演題: ① 「松尾芭蕉と粕壁」
            ② 「近世・近代 粕壁の俳人たち

「今こそ家庭教育を学び、この困難な時代を乗り切ろう!」
                        家庭教育専攻 教授  福田博子

 世界不況のあおりを受けて、世の中は沈滞ムードに包まれています。しかし、いつまでもこの状態が続くわけではないでしょう。

 学校教育法の9章 第83条に「大学は学術の中心として、広く知識を授けるとともに、深く専門の学芸を教授研究し、知的、道徳的及び応用的能力を展開させることを目的とする。」とあります。大学は専門の学問を探究するばかりでなく、色々な学問を修得することによって、all-roundな人間を育成するのです。ここには人格陶冶も勿論、含まれています。
 民生委員をやっているある学生が言っていました。「経験だけでは人を説得することは出来ないのです。例えば大学で学んだことの中からある学者のある言を取り上げ、アリストテレスは・・・、ヘーゲルは・・・、と言うと、相手は真剣に聞いてくれるのです。」
 大学で学んだ深遠な専門的知識や広範な知識は、資格取得に必要なばかりでなく、困難な状況に遭遇したり、何か新しいことを始めたりする時等に、広い視野で物事を考えたり、的確な判断ができたり、応用が利くのです。
 
 ところで、18~19世紀のスイスの教育者ペスタロッチーは「子どもにとって家庭は最初の学校である」と言いました。家庭で親が子どものしつけをきちんとしなければいけないということです。また、「教育の淵源は家庭にあり、家庭の中心は母にあり、母賢なれば家ととのい、一家ととのえば一郷治り、延いて全国の民風自ら純良の域に進むべし」とは文部省が1927年の高等小学読本巻3(女子用)に載せたものです。 
 家庭教育を徹底的に研究する大学は世界で八洲学園大学だけではないでしょうか?家庭教育を様々な角度から学び、家庭教育のエキスパートになり、自分の子どもだけではなく、他人の子どもや親を支援できるようになってみたいとは思いませんか。
私の演習科目「乳幼児のしつけ」では、毎回30分位ディスカッションルームで討議します。ちなみに、前学期行った主な議題を挙げます。1 子どものトイレトレーニングを嫌がる父親への対処は?2 子どもを叱れないお父さんへの対処は?3 幼稚園に2年行かせるか3年行かせるかで悩んでいるお母さんへの対処は?4 デパートの玩具売り場で高価な玩具が欲しくて泣き叫ぶ子どもへの対処は?5 各自の家庭の教育目標や教育方針について。
 このような議題について、自分の育児経験や書物で読んだことや自分の理想論を自由に語り合い、家庭教育の目的や内容や方法等を皆で模索し、究明するのです。

 八洲学園大学のよさは、言うまでもないことですが、通学しないで、自宅で授業を受けることが出来ることです。また、10代から70代までの(未婚の方から孫のいる方まで)色々な年齢の学生が在学していて、上記のように授業でディスカスすると様々な意見交換が出来、実に楽しいです。それに、24時間いつでも教師に質問が出来、教師が迅速に解答してくれることも他の大学と異なる所です。また、別のブログにも書きましたが、本学の海外在住の学生から外国の新鮮な情報をキャッチすることも出来ます。その上、科目によって違いますが、レポートを2回添削して返却します。文章は添削してもらわないと絶対に上達しません。添削の結果、1回目のレポートと3回目のレポートとはその出来栄えに格段の差があります。さらに、授業料が安いことが何といっても魅力です。
 
 本学での学習を考えていらっしゃる皆さん、家庭教育について一緒に勉強しませんか。前回のブログで中田雅敏課程長がいみじくも書いていらっしゃるように、「家庭教育は学生と教員が一緒に考え学ぶ学問」です。輝かしい未来のために力を蓄え、この困難な時代を乗り切ろうではありませんか。

「ひこばえ」が生える

           中田雅敏(八洲学園大学

 家庭教育については、誰もがその必要性を認めています。すなわち、家庭の中で営まれる毎日の生活そのものが、実は家庭教育であるわけです。無意識に接している何気ない言葉や、言動が家庭教育であるといわれると、「はて」とお考えになってしまわれるでしょう。

 無論、意識して行っている行為もあります。食事の前には手を洗いなさい、脱いだ服はたたんでおくものですよ、というような言葉も「しつけ」とか「行儀」などと言えます。親は「意識していない、あたり前にしているだけだ」とおっしゃるかもしれませんが、内心ではこうして欲しい、こうなって欲しい、という親の願いがあるのですから、意図的な行為です。実はこうした日常の家庭生活の中で行なわれている、親から子への働きかけが「家庭での教育」なのです。

 親が宿題を手伝ってやる、塾まで送り届けてあげる、試験勉強を一緒にやってあげる、これらも「積極的家庭教育」と言えるでしょう。こうした積極的意図的働きかけも実は大切なことでもあります。しかし、この方法が高じて、近年大学受験にまで親が付き添って来る大学が多いようです。これを禁止した大学もあるそうです。決してわるいことではありませんが、ほどほど、或る程度、なら普通のことでしょうが、これを越えると過干渉、過保護ということにもなりかねません。

 つまり、家庭の中で、親から子供に何らかのことを目的意識を持って働きかける行為を「家庭教育」といいます。きちんとした子供に育てたい、しっかりした強い子に育てたい、優しい子に育てたい、社会に役立つ子供に育てたい、実業家にしたい、政治家にしたい、教師にしたい、親が子供に「こうした大人になって欲しい」と願うことはすべての親が持っているごく普通の願いです。当然のことなのです。それなのに近年は「家庭の教育力の低下」などと言われています。

 それでは、この「家庭の教育力」とはいったい何を指し、子供に何を教育すれば良いのでしょう。簡単に言ってしまえばそれは「極あたりまえの普通の大人になって欲しい」と思いながら、親が子供に接することなのです。日本語には「いいあんばい」「いいかげん」という言葉があります。「ほどほど」「いいかげん」と言うと、何か安易に適当にすればいいのではないかと受けとってしまいます。

 しかし「適当」は「表面上つじつまが合うように、要領よく立ちまわる」というマイナスイメージを抱かせるようなニュアンスがありますが、実の意味は「ある性質や状態、要求などがちょうど良いこと」「度合いがちょうど良い様子」をいいます。「良い加減」「よい塩梅」「程程」についてもそれなりの意味があります。しかしこれらのことを実行するには大変なむずかしさがあります。子育ても、子供の教育も、大人の付き合いも、皆、ここにあげた言葉どおりに実行すれば波風はたちません。

 家庭生活で親が子供に働きかける行為を「家庭教育」という。前述したように親は子供に、優秀な成績をとって欲しい、有名な学校に入って欲しい、官僚になって出世して欲しい、優良企業の役員になって欲しい、これも親の願いであり、誰も否定はできません。それでは「よい加減」「よい塩梅」とは違うではないか、他人よりぬきん出ること、人より上に立とうとする考えではないか、と言われるかもしれません。

 しかし、社会や世の中の構造がそうなっているのです。これは社会を維持し、組織を作るための前提です。リーダーになる人がいる、参謀になる人がいる、支える人がいる、働く人がいる、そして社会が成り立っているのです。人に優劣をつけることはできません。人を侮ったり、軽蔑することは許されません。人を価値観で判断することは許されません。自分を自分で値踏みすることは許されません。

 それではどんな考え方をすればよいのでしょう。それが家庭教育です。学校では人間が生きてゆく知識、生きてゆくために必要な力、人間として発展し、地球規模で人間が幸福になる知識、学問、研究を教えてくれます。それでは家庭では何を教えるのでしょう。それは親の願いです。こうした人間になって欲しい、という人間願望です。これは、各家庭によって、それぞれの親によって皆違いがあります。早い子、遅い子、皆それぞれの特質をもっています。

 家庭教育は、それぞれの子供が持っている特質を伸ばし、それぞれの個性を大切にし、それぞれの方法で「親の願い」と「子の願い」が両立するように図ることが大切です。八洲学園大学家庭教育専攻では、その方法や学問が学べます。人はだれでもかけがいのない存在です。ひとりひとり大切な存在です。この考えに至る過程を家庭教育専攻で学んで下さい。

 八洲学園大学家庭教育専攻では、「親の願い」を叶える方法が学べます。「子供の願い」が叶う教育方法を教授します。家庭の人々が願う生活態度を教授します。社会に貢献できる人間となる方法や考え方を教授します。そしてなによりも「八洲学園大学家庭教育専攻に学んでよかった」といえる授業を行います。

 親が変われば子供も変わります。子供が変われば親が変わります。親子が変われば家庭が変わります。人生は順風満帆な日々ばかりではありません。茨の道ばかりでもありません。枳殻のきにも白い白い美しい花が咲きます。一度倒れた倒木からも「ひこばえ」が生え、それが大きな大木に育ちます。人生はそれほど捨てたものではありません。八洲学園大学家庭教育専攻では、そうした授業が行われています。決して損をした、つまらなかったという思いはさせません。なぜなら家庭教育は学生と教員が一緒に考え学ぶ学問だからです。

「非人道的な教育を絶滅させるため!?」

 16世紀初期、エラスムスという人物がおりました。彼は、1529年に『子どもを生まれた直後から、自由人にふさわしいやり方で、徳と学問に向かって教育する方法についての提唱』と題する教育論の中で、当時の教育機関について次のように述べております。

 「やっと四歳になったばかり位の年頃の子どもを、あの無教養で、百姓くさい、不道徳な教師が営んでいる学校に入れるなどということは、子どもにとってめいわく千万なことである。これらの教師どもときては、いささか頭の変になった連中ばかりで、しょっちゅう夢遊病やてんかんにとりつかれている。世間の人たちは今日では、およそ一番使い道のない、ろくでなしの人間のことを、学校の教師さえもやれない人間だ、というように言っている始末である。・・・この連中のやっている学校ときたら、学校というよりも、むしろ拷問所といった方がふさわしい有様である。そこでは笞や棒でなぐる音が響きわたり、そこから聞こえてくるものは、子どものすすり泣きの声と、それから先生のおそろしいどなり声だけである。こんな所では子どもは勉強ぎらいになるばかりである。
 それよりも一層馬鹿げているのは、自分のかわいい子を、読み書きを習わせるために、あののんだくれのおかみたちのところに入門させることである。一体女が男に対して権力をふるというようなことからして、不自然きわまることであるのに、おまけに怒ったとなると、女ほど世に無慈悲なものはないし、かつまた女というものは甚だ怒りやすいものであり、しかも一旦カッとなると、他人に罰をくれて、それでせいせいするよりほかに気のしずめようがないという厄介な代物である。
 それから修道院だの僧団の学校だのというのも、金もうけ仕事に学校をやっており、幼い子どもたちを、うす暗い場所で教えており、彼ら自身がほとんど人間らしく教育されるどころか、むしろその反対の教育を受けてきた連中である。
 こうした教育のやり方は、余人はいざ知らず、少なくとも自分の子を自由人として教育したいと思う人たちの取らざるところである。だから学校というものは、公立であるべきで、公立でない学校は学校ではない。人間というものはちょうど板に穴をあげる時には一番うすいところでえらんでやろうとするように、易きにつき勝ちなものである。だから、一人一人の子どもを自由な方法で教育するよりも、十把一絡げにして、一律に、子どもの恐怖心を利用して、彼らをおとなしくさせておく方が楽だというのでこんなことをやるわけである・・・。」

 なんだか、ずいぶん毒舌だなぁ(とくに怒った女性についてのくだりなど)と、思ったりもするのですが、一面において、当時の学校における一般的な教育の特徴をよくとらえているな、とも思います。エラスムスという人物は、こんな調子でさらに延々と独自の教育論を展開していくわけですが、面白いのは、彼が「非人道的な教育を絶滅させるため」という目的から「学校の公立化」を主張している点であります。時代をさかのぼり、多くの思想に触れることで、いろいろな発見があり、ずいぶん面白いものだと思います。
 さて、来学期(平成21年春学期)から、「西洋家庭教育史」(S)を新しく担当することになりました。「家庭教育」についても、こんな感じで様々な時代や国の考え方を紹介しながら進めていく予定ですので、皆さん、どうぞ一度、遊びにきてみて下さいね!

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