筆禍事件 八洲学園大学 家庭教育専攻 中田雅敏 資料請求
筆禍事件というものがある。作家は「もの書き」とも言う。人気作家は雑誌の連載が何本もあると、同時進行で原稿を書く場合がある。更なる人気作家は、原稿を雑誌編集者が奪い合う「缶詰」という方法に合ってしまう。
連載原稿であるから、切らしてしまっては大穴をあけてしまう。そこで作家を旅館や料亭にとじこめて、缶詰め状態にして、むりやり書かせ、編集者はそれを待ちかまえていて、出来上がった原稿を社に持ち帰り、至急印刷にかけて発行するのである。週刊誌は毎週のことであるから、こうした「缶詰」は今も、今日もどこかで行なわれているに違いない。
また「雪隠詰」という言葉もある。本来はお手洗いに入って、扉が開かなくなってしまうとか、敵に扉を閉められて監禁状態になることを言う。相手を追い詰めることから、将棋では、王将を隅に追いこんで詰めることをも言う。いずれの意味も、追い詰められてなす術もなくなり、なすべき方法もなくなり、お手上げ状態になることを言う。
何か、作家の「缶詰」と「雪隠詰」はよく似ている、この状態から「なんとか脱出しなければ」と誰もが思う。人間は追い詰められれば「妙案」も「良い手」も浮かぶものであるが、あまり深く追い詰めると窮してしまって、自ら命を断つことさえある。或いは「貧すれば鈍する」という状態に陥ってしまう。
昨今の日本の状況は正にこのような状況に陥ってしまっている。「鈍する」状態は、道理の感覚が麻痺してしまう状態であるから、正確な判断ができなくなる状態だろう。昨今の政界は正にこんな状況なのだろうと思われる。学問の世界もまた同じではなかろうか。むやみに時間があれば良いというものでもない。さりとて「窮して貧しても」よい研究はできない。
研究には「一種のひらめき」と「実証」とが必要である。「ひらめき」の生まれる時間というものも必要であろう、雪隠詰めになれば窮してしまう。しかし古来から妙案が浮かんで来る所は、雪隠と閨房と厨房という事になっている。そう言えば愚生も寝に就く床で一句、二句が浮かぶ時がある。自分では良い句ができたと思い、そのまま寝付いてしまって、朝になって書きとめようとすると、あまり良い句でなかったり、すっかり忘れてしまっていることもある。やはりその場に臨んでしっかりと詠まなければ、良い句は生まれないのである。
或いは、雪隠と馬上という説もある。現代では電車や車の中のことであろうが、愚生の体験からすれば、電車や車の中で作句したものには決して良い句はない。その場に臨んで、その場で良く見て、自分の心が動かされたものでなければ良い句は生まれないのである。或る程度の心の余裕と、書くことができる時間も必要である。ブログを書くにも対読者意識を持たなければ「筆禍」をおこす恐れもある。なんでも書けばよいというものでもないであろう。
石川達三という作家は、いつもこの筆禍をやった。今となれば意識してやったようなところもある。右翼や左翼の人々から批難されている。それでも自分で行なったので平然としているのである。政治家には舌禍というものがある。つい口走ってしまったことが大きな問題に発展してしまう場合である。
日常生活の中では『拾いたる俺の名刺に「ハゲ」とあり』という川柳などもある。名刺をいただいてその人の特徴を裏に書いておいたものをなくしてしまった。たまたま差し上げた方が落ちている名刺をひろったら、そのように書かれていたという笑い話である。しかし笑い話の中は良いが、現実のものとなったら困ることになってしまう。
舌禍、筆禍、いずれも文章表現には気をつけなければならないということであり、日本語のむずかしさをつくづくと感じることもある。それでも粘り強く前進しなければならない。