秋の夜長に
渡邉 達生

「不生不滅」(ふしょうふめつ)という言葉があります。仏教の言葉で、おだやかな境地になるための視点を示してくれているとは思っていたのですが、その意味を深く考えたことはありませんでした。そもそも、生じなければ滅びることもないのは道理です...。でも、もっと深い意味があるはず...。とは思っても、素通りしていたのです。ところが、ある日、ひょんなことで、立ち止まってしまいました。
それは、うすら寒い日の、太陽が傾いた夕方のことでした。ウォーキングをしていると、道のかたわらで山茶花の花が西日を浴びていました。寒くなったとはいえ、秋の西日は、夏のときよりも鋭い切っ先をもっているのです。その強い日差しを受けた花は、確かな存在感を示していました。秋の夕暮れはすでに迫っています。それをものともしない、凛とした風情を感じたのでした。
あまりの気配に携帯電話を取り出して、カメラに納めることにしました。花は赤一色で強い光を一面に浴びています。ここは露出を少しマイナス補正して、カメラの中に入る光をセーブしました。撮れた写真を見てみると、光の強く当たっていたところが白く照り、深みを与えてくれています。
帰宅してから、尚も見ていると、この写真の花が蓮華に見えてきました。はすの花です。蓮華といえば、仏像がその座の上に座っています。そう思ったとき、あの「不生不滅」のことが気になりました。何せ、この花は、あまりにも自分の生を主張しているように感じられるのです。そのような生き方は、不滅はともかく、不生ではあり得ないでしょう。
思うに、花は生じているからこのように見事に咲くのであり、そして、この花もやがては散り、滅してしまうでありましょうに。であるのに、「不生不滅」...うぬ。これはややこしいところに足を踏み入れてしまいました。まさに、その夜は、「♪ふけゆく秋の夜...ひとり悩む」でした。
10年以上も前に買った、『正法眼蔵入門』(森本和夫;朝日新聞社)を持ち出して来て、改めて読んでみました。
『正法眼蔵』では、生と死を、次のように説明していました。
「生の死になるといわざる、...このゆゑに不生といふ。死の生にならざる、...このゆゑに不滅といふ。生も一時のくらゐなり、死も一時のくらゐなり。たとえば、冬と春のごとし。冬の春となるとおもはず、春の夏となるといはぬなり。」
ここの部分をじっと見て、数時間。おぼろげながらにつかんだことがあります。
不生というのは、自分でとらえた、ある生のことであり、不滅というのも、自分でとらえたある死のこと。そして、心の中に、そのような不生を生じさせ、不滅を吹き消すことで、心がおだやかになるというのでしょう。
また、生から死に至る過程を、冬と春のつながりにたとえることで、生と死の理解が深まることがわかりました。春は、冬が春になるので春になるのではなく、冬という位が、春という位になると、とらえてみるのです。春は冬の所産ではないのです。冬は冬、春は春で、それぞれに、その本質と実態があり、それが、位のようにつながりをもっているのです。
そのように生と死とを置き、それぞれにある価値を考えてみるとき、生にある価値が浮き彫りになってきます。
あの、太陽の光を受けた山茶花の花は、まさに生の価値を示していました。太陽の動きは日々変わり、毎日、照りつける角度も、微妙に違って行きます。それを山茶花は受けているのです。そして、花びらのへこみ具合は昨日と同じではないのです。生長しています。花びらがその日とらえた太陽の光は、その日のへこみ具合で集まる光の量が変わるのです。思えば、あの輝きは、後にも先にもない、その日の、その瞬間だけに見ることができた生の輝きなのでした。
人も、日々、花を咲かせ、顔に満面の笑みを浮かべることができます。そのとき、太陽の役割を果たしてくれているのは誰なのでしょう。子どもにとっては親が、親にとっては子どもが、そうなのです。互いに、二度とくりかえすことのできない生を、日々、生み出し合っているのです。それを明らかにし、自分で感じ取っていくことが、不生不滅の骨子ではないか、そんな思いが行き来した秋の夜長でした。