2010年2月アーカイブ

教育愛を考える
           
福田博子


 西洋教育思想史が専門であるので、今回はペスタロッチーとフレーベルを取り上げた。 
 ペスタロッチーは、シュタンツの孤児院で、期間は僅か5カ月であったが、孤児や貧しい子ども達と家族のように生活した。子どもの数は多い時で80人を数えた。最初はABCも知らず、手のつけられないほどすさんでいた子どもが徐々に学習の進歩を発揮したばかりでなく、ペスタロッチーを実の父親のように慕うようになったのである。子どもの親が孤児院に来た時、ペスタロッチー先生に挨拶しないことを悲しんだり、近隣の村で火事になって焼け出された子ども達を孤児院に引き取ることに賛成したり、優しい気持ちを表すようになった。ペスタロッチーの生涯にとってシュタンツ時代は教育愛の高潮した時期であっただろう。


 また、フレーベルは世界で初めて幼稚園を創設したが、社会的地位や貧富に関わりなく、すべての乳幼児を対象としたのである。フレーベルの幼少期は幸せではなかったのに、いや、幸せでなかったからこそ、子どもに限りない愛情を注いだのであろう。晩年の地、リーベンシュタインで、村路を歩いていると、子ども達が家の中から駆け出して来て、よちよち歩きの幼児まで、彼にすがりついて一緒に歩いたという。これほど子ども達に愛されたのである。


 この二人の愛は無償の愛なのであろう。我が子を愛することができない親がいるのに、他人の子どもを、これほど愛するとは、天才ゆえなのか、教育への情熱か。

学生のみなさま
家庭教育専攻長 石井雅之


 昨秋から現在までに、家庭教育課程・専攻開設科目の平成22年度開講予定に若干の変更点が出てまいりました。ここに、変更点を記入した開講予定表を掲載いたしますので、ご確認のうえ、履修計画を点検してくださるようお願いいたします。

家庭教育課程・専攻開設科目の平成22年度開講予定表(22年2月19日).pdf

『ご一新』

                         

 司馬遼太郎の畢生の作である『坂の上の雲』の第一部が年末に放映された。大志を抱いた若い人々の活躍が活写されていた。しかし私達の明治維新像は貧弱な想像力しか持っていないのである。大河ドラマの史観と歴史教科書の史観しか持ち合わせていないからである。ドラマはドラマでしかない。だから私達は誰かが思い描いた様相と事実の羅列を知るだけなのであるが、それでも明治維新とはこういうものであったとそれぞれが思い描いているのである。
 本来、世界の歴史や政治史、経済史などと比較してみたら、どんな位置づけになるのであろう。坂野潤治氏と大野健一氏の共著の『明治維新』によれば、「明治維新とは、非西欧世界における極めて例外的でユニークな社会変動」であったと説明されている。憲法を制定し、議会を開設し、他方で富国も強兵も推進した。なぜ複数の国家目標を同時に達成実現できたか、という疑問に充分に応えている。

  をとゝひの糸瓜の水も取らざりき   
  糸瓜咲て 痰のつまりし仏かな      
  痰一斗 糸瓜の水も間にあわず     (子規)

 右の三句を残して子規は、明治三五年九月一九日の未明、享年三四歳の生涯を閉じた。子規も明治維新という国家的大事業を成す一人たるべく上京していた。しかし、結核性カリエスという阿鼻叫喚の苦しみの病のため、その大事業に参ずることができずに朽ち果てたが、この期の人々が抱いた「修身・斉家・治国・平天下」という志は見事に達成したと言えよう。
 生きながら自分を仏に見立て、この「仏」の句の両側に二句を添え、あたかも三尊像の脇侍のような絶筆は、死ぬ季節のことまで気に掛けていたという子規の壮絶な志を知ることができる。江戸期の卑俗な月並俳句を嫌い、写生による俳句革新を推進していた子規は、「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」という国民的愛誦句を残した。一部の江戸期の豪商や酔人による月並月例饗宴俳句会を毀し、解放されて写生により誰でも愛唱作句ができる「文芸ご維新」を、たった一人病床六尺の世界で成し遂げた。これが子規による明治維新であったのである。

  糸瓜さへ仏になるぞ後るゝな      (子規)

 「草木国土悉皆成仏」と前書きがある。河東碧梧桐は「人の思ひもよらぬ、又た形の雅な糸瓜を捕らへて其辞世を作った。将に息を引き取らんとする数時間前に於いても、尚この用意を存して居ったのは真に驚くべき事と言はねばならぬ」と書いている。この意気軒昂たる志が明治維新という大事業を完遂させたのであった。人々は「ご一新」と呼んだが、俳人たるものこのような志を持ちたいものである。
 私達は発展と速度と効率を一律に求める波に押し流されている。世界の過去も振り返る研究を通して受け継ぐべき価値あるものを回復し、これまで私達が真理・普遍的と考えていたものを再考する必要に迫られている。明治維新を成功させたものは「柔構造」という、柔軟で強靱な意志とを持って複数の国家目標を達成する考えであるようである。

「祈り」の力


 ご紹介したい本がある。読んでいてなにか希望がもて、元気が出てくる本。『人は何のために「祈る」のか-生命の遺伝子はその声を聴いている』(祥伝社、2008年)という本である。著者は村上和雄筑波大学名誉教授と京都府立医科大学の棚次正和教授のお二人。村上教授は遺伝子研究に携わってきた世界的な科学者、一方、棚次教授は「祈り」を宗教学・宗教哲学の領域から研究してこられた方。本書は「祈り」は決して特殊な行為ではなく、人間の自然本性に由来する行為であるとする立場から書かれている。


 本書のなかでは、人間の「祈る」という行為が人間自身になにをもたらすのかと言うことが随所で述べられる。人間の祈る行為は、身体的次元、精神的次元、社会的次元で明らかに変化をもたらす力があることが様々な視点から事例をもとに示される。遺伝子研究の第一人者として知られている村上教授曰く、人間の「生きることのすべてが遺伝子の影響を受けて」いるが、祈る行為が眠っている遺伝子のスイッチをオンにすることを可能にするという。


 「祈り」は、情緒的な問題、心の問題、とりわけ「宗教」に関わっている人のことがらと考えられがちであるが、本書では祈りの行為を「宗教」に関わりを持たない人にとっても生きていく上で極めて重要な問題であるとする。その点では、「祈り」を宗教の専売特許とする立場に立っていない。「祈りの効果と宗教は関係ない」という立場である。また、遺伝子ということばから科学主義的な立場からのみ書かれているかというとそうではない。本書では「祈り」は人間の生きることの宣言、「生命の宣言」でもあるとされ、人間にとって「祈り」の行為がもつ意味の次元の探求もわかりやすい言葉で綴られている。


 科学主義に偏らず、狭い意味での宗教研究でもない型破りで一線を越えた本書の立場が示唆するものは興味深い。我々は、これは自然科学、これは精神文化で、これは脳科学で、心理学で・・・と細分化された学問や領域のなかで考えがちである。「祈り」もまた「宗教」という限定された領域で語られがちであるが、これらの領域の垣根を取り払いつつ、かつその成果を無視することなく、「祈り」を人間存在の全体の問題として開いていく本書の主張が受け入れられてきたときに、社会にもたらされる成果はどのようなものだろうと想像するだけでわくわくしてくる。お薦めの一冊。


 春学期の授業「現代社会といやし」のなかでもぜひ取り上げて受講者と議論したいと思っている。

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