家庭教育の教員より(47): 渡邉 達生 教授

春の日ざしに
渡邉 達生


harunohizasinonakade.JPG
 春分の日の正午、お日様は赤道の上にいます。そして、この日より、お日様の正午の位置は、赤道を越え、北に向かいます。(いや、太陽が動くのではなく地球が動く...いや、まあ、それはそうですけど、それはその...)


 その春分の日、春風が吹き荒れました。その春風に吹かれ、近くの公園に出かけました。ケヤキやブナは葉っぱを落としてお休み中。しかし、若草色の新芽をかすかにのぞかせていました。サクラは枝先をほんのり赤く染めていました。そして、その近くに、春の日ざしを浴びて、緑の葉をつけているツバキの一群がありました。この木の下に入り、カメラを回転させながらシャッターを押すと、右上の写真になりました。混沌とした不思議な世界の登場です。


 緑色は葉、青色は空、茶色は木の枝です。でも、この写真からは、それらの存在を理解することはできません。しかし、それらの存在は確かにあり、その存在を知ってこの写真を見るのと見ないのとでは受ける意味も違ってきます。人の存在と、その理解も、このようであるのかもしれないと思いました。


 
 先日の帰り、池袋駅のホームの売店で文庫本を買いました。浅田次郎の『草原からの使者』。その本を読んでいて、心を動かされ、付箋を貼ったところがあります。
...「和男はその従順さと誠実さゆえに、父の不信を買ってしまったのでしょう。」...
 (エッ、ナンダッテ。従順・誠実であることが悪い?ドウシテマタ!)
 お父さんは、一代で名声と冨を築きました。和男という人は、そのお父さんに従順であり、何事にも誠実に尽くしました。だから、お父さんにとって信頼の置ける人となっていたのです。しかし、そのお父さん、自病が悪化し、余命がいくばくもないことを知らされたとき、信を不信に変えました。従順であること、誠実であることは、自分がこの世に存在しているときには、価値のあることでした。それによって、自分の築いてきた富や名声が守られます。ところが、自分がこの世から去っても、なお、自分が築いたものを守ろうとするとき、それではすまされなくなったのです。作者は、主人公に語らせます。
...「父の考えはわからんでもありません。人間、目の黒いうちは「裏切らぬこと」が信用の第一ですけれど、死んでしまったあとは「失わぬこと」が信用ですからね。その点、人の好いばかりの和男は信ずるに足らなかったのです。和男はそんな父に、どれほど理不尽を感じたでしょうか。」...
 人に尽くすことは、それをくり返すことで、相手には鈍重と映り、猜疑心の芽を生ませることにもなるのです。考えさせられるところです。信も不信も、所詮はわが身の保身から来るのでしょうか。


 この時期は、入学、卒業、入社、の時期とも重なります。それぞれに、人生の門出であり、めでたいことです。そこには、新たな人との出会いがあります。新たな人たちと仲良く過ごしたい、一緒になって一生けんめいにがんばりたい、と誰もが思うことでしょう。でも、であるがゆえに、不信を買ってしまうこともあるのです。希望の春が、失意の春に転化しないとも限りません。それは、その人に落ち度があるのではなく、人の習性としてのしかたのないことでもあるのだと思います。


 それを持ち直すのが家庭の力でしょう。この写真には、もともと、春の日ざしを浴びている緑の葉がありました。青空もありました。茶色の小枝もありました。それを知っている撮影者には、この写真からでもその存在を理解することができます。それと同じように、長い間生活を共にしてきた家族は、互いに本来の姿を知っています。互いに、それを知らせ合い、はげまし合う機微もつかめることでしょう。春はアクティブな季節。家族それぞれに、自分の役割を認識するときがめぐってくるかもしれません。一緒になって、春の日ざしを家庭の中に取り入れましょう。


このブログ記事について

このページは、家庭教育が2010年3月24日 11:20に書いたブログ記事です。

ひとつ前のブログ記事は「家庭教育の教員より(46): 望月 嵩 教授」です。

次のブログ記事は「家庭教育の教員より(48): 田中 マリア 講師」です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。