授業からの一言の最近のブログ記事

授業からの一言(15):渡邉達生教授

 夏休み(「初等教育と家庭教育概論」より)

 暑い毎日が続きます。夏です。夏休みです。小学生の子どもがいる家庭では、子どもの一日の生活をまるごと引き受けていることでしょう。
夏は、植物に生気がみなぎる時です。燦々と降り注ぐ太陽の光を自らのエネルギーにして、精一杯、自分を生長させて行きます。
 
 わたしは、毎年、鉢植えのアサガオを育てています。
6月のころ、アサガオのツルは、まだ弱々しく伸びたツルの先をどこに置いていいのかわからないというように、風に揺さぶられ、頼りなさそうにしていました。これは手を貸してあげなければ…と、近くの植木の枝にツルをもっていってあげました。しかし、翌朝、アサガオはツルを戻して、また、ふらふらと揺れているのでした。
 毎年、繰り返してしまう光景です。アサガオにまかせておけば…と思いつつも、か弱いツルを見ると、つい手を差し伸べてあげたくなるのです。しかし、アサガオにしてみれば、それは迷惑なことのようです。アサガオは、ツルを風に揺らせては自分の成長をはかり、丁度よいころ合いを見て、巻きついていく先を決めているのです。…それがわかりつつ、今年も、守ってあげたくなり、つい、手を出してしまったのでした。ところが、道を歩いていてそのようなアサガオを見ても、「何とかしてあげたい」という気にはなりません。かえって、ツルの様子に、けなげに生きようとしていることを感じ、ほほえましくもあるのです。この違いはどこからくるのでしょう。どうやら、毎日水をあげて世話をすることが、「こうしてあげなければかわいそうだ」という思い込みを生みだしてしまうことになるようです。相手の生気が理解できなくなるのです。毎年、アサガオに反省させられます。
 今、8月のアサガオは、元気いっぱいにツルを伸ばしています。毎朝、場所を変えて、新しい花を咲かせてくれます。その花を見ると、心が和んできます。「咲かせてくれてありがとう」という気持ちさえも起きてきます。まだまだ、ツルは伸びています。ツルの先が、どこに伸びようかと頭をもたげ、風に揺れているのも見かけますが、もう、手を差し伸べようとは思いません。アサガオにたくましさを感じられるからです。アサガオに、自分で生きていることを感じられるようになっているといえるでしょうか。
 
 夏休み、子どもの生活をずっと見ていると、いろいろと気になることもあることでしょう。でも、「こうしてあげなければ」という思い込みが先行すると、子どもが備えている生気を曇らせてしまうことになるかもしれません。子どもの様子を見て、子どもに、「自分で生きていることを感じられる」ことが、親の余裕をつくり出すことになります。
 その手がかりとして、子どもに、家族の一員としての役割を担ってもらったらどうでしょう。夏休みに家のお手伝いをすることが、学校からもすすめられていると思います。それは、働いて家族の役に立つということだけではなく、自分で自分のツルを伸ばすことができるようになるのです。
例えば…、玄関の掃除、お風呂の掃除、植木の水やり、新聞取り、カーテン開け、省エネチェック、お買いもの、おつかい、妹や弟の世話、留守番、食事のしたく、食事の後片づけ、洗濯物のとりいれ、床みがき、小動物の世話…。


授業からの一言(14)  望月 嵩教授

 これまで、家族社会学概論と現代の社会病理の授業を行ってきました。どちらも現代の日本の状況を考える科目といえますが、受講生の数が必ずしも多いといえないのは残念です。この春学期は、これまでと違って、家族社会学をスクーリング履修に、現代の社会病理をテキスト履修に変更した。現代の社会病理は60名を超える受講生でしたが、家族社会学概論は15名程度でおわってしまいました。スクーリング履修の科目は土曜日の午後2コマ継続という授業形態が問題かもしれません。いずれにしてももう少し受講生の数を増やしたいと思っています。
 この秋学期からは、新たに夫婦関係概論と教育社会学概論の科目がスタートします。夫婦関係概論は、テキスト履修ですので、今、テキストの作成に努力しています。これまでの家族社会学概論と重なるところも多いので、合わせて受講していただければと思っています。スクーリング履修で行う教育社会学概論は、現代の大きな問題である教育をめぐって、社会学の視点から検討します。両科目とも新しいカリキュラムによるものです。興味深い授業にしたいと思っています。
 最近の社会では、これまで考えられなかったような事件が多発しています。マスコミでは、こうした事件の発生の度に、生まれ育った家庭に問題があったとか、社会の風潮に原因があるなどというコメントが流布されています。たしかに、多くの事件の背景に家族問題があることは否定できませんが、マスコミの報道や解説が真実を告げているかということになると首をかしげざるをえません。その見解が事実に基づくものではなく、ほとんど推測だからです。私たちは、そうしたマスコミの報道も、一つの情報として判断をしていくことを身につけることが大切です。
 大学での学習は、単なる知識の獲得だけではなく、多様な情報を自分で操作して、より真実に近づけるようなものの見方、考え方を身につけることが目標です。数多くの授業を通して、適切な理解力、判断力を得てほしいと思います。私の授業が、その一端でも担うことができればとがんばりたいと思っています。

授業からの一言」(13):水野建雄教授

 去る6月21日の土曜日の夕方、本学の卒業生や在校生が教員も含めて10名ぐらいが一緒に集まって座談会が開かれた。これは、学生が自発的に組織した公認団体「家庭力応援倶楽部―スマイルコミュニケーション」(通称:スマコミュ)が企画した座談会である。このメンバーは「家庭教育」を考え勉強する熱心な集まりであり、現在13人が活躍しているが、同時に、普段ネットでしか交流できない友達が直接会って、勉強を通じて親密な人間的交流を広めようとするすばらしい集まりでもある。
 さて当日の座談のテーマは「居場所と家庭教育」であった。6月26日の当ブログで平良先生も「居場所」について書かれていたが、考えてみれば、時宜を得たテーマである。授業でも何度かとり上げたが、「居場所」は、乳幼児にとっては母親という安心基地であり、どんなに不安やつらいことがあってもそこに帰れば安心できる場所である。しかし安心を与えてくれる他者の存在の必要は子どもの時代に限らない。信頼すべき助けになる人がいて必要があればいつも呼び寄せられる、そういう相互依存と信頼関係が無条件に築かれている他者の存在は、人間が生きていく上でどうしても必要である。それは他者に求めるだけでなく、自分への依存も他者に許容する相互性でなくてはならない。その居場所が現在困難になっている。秋葉原殺傷事件の犯人の居場所はどこにあったのであろうか。居場所を提供しない他者への怒りしかなかったのであろうか。

 少人数の授業では、授業終了後、毎回掲示板に課題を出すことにしています。受講生は次回の授業の1時間前までに、解答を送信することになっています。学習意欲ある受講生は課題を出してから数時間後に解答を送信してきます。そして、2~3日のうちには、掲示板は開花したように賑やかになります。また、授業の時、ディスカッション機能で、幼児教育の問題について討議をすることにしていますが、最近は受講生から課題を出してもらうこともあります。その中でこういうのがありました。「夜遅く、コンビニエンスストアやファミリーレストランに幼児を連れてくる親がいます。家庭教育アドバイザーとしてその親への対処は?」これについては、知っている人には注意できるが、知らない人には注意しにくいという意見が多かったです。それぞれ家庭の事情があるでしょうが、幼児を夜遅い時間に連れ出すのは子どもの健全な発達の上からも好ましいことではありません。
 もう随分前の経験ですが、ドイツに滞在していた時、ドイツの友人の親戚の家に遊びに行って、帰りが遅くなり、夜10時頃汽車に乗ったことがありました。車中、友人の5歳の娘は興奮してはしゃいでいました。そうしたら、ある中老の紳士が少し離れていた席からやって来て、「子どもをこんな遅い時間に汽車に乗せるとは何事だ!」と叱ったのです。友人は事情を説明しましたが、他人が注意したことに私はいたく驚愕しました。我が国では、あかの他人が注意・助言することは容易ではありません。それができ、受容されたら、もっと世の中は平和になるのではないでしょうか。

 八洲学園大学国際高等学校の六月スクーリングに参加させていただいた。前校長先生でいらっしゃった和田公人理事長先生との引き継ぎもいただいた。八洲学園大学国際高等学校の先生方も熱心に教育活動をなさっていただいた。
 校舎は海の見える高台にあり、広々とした大地に白亜の校舎がそびえていた。教室棟、宿泊棟、シャワー棟、職員室棟、それに体育館を兼ねた食堂などが、台地の段差を利用して作られていた。
 建物の敷地には芝がびっしりと植え込まれており、緑色の芝生が朝露にきらきら輝いているのが実に美しかった。朝ばかりではなく夜にも照明灯の光りで美しく光っていた。
 周囲の森林は沖縄特有の照明樹の森で、高校の校舎をぐるりとかこっているようでもあった。先に到着されておられた理事長先生に案内をしていただだき、校舎の隅々まで拝見した。ちょうど昼食時刻であったのでそのまま食堂で沖縄のソーメンをいただいた。冷たくて実に美味であった。職員室で先生方が授業の準備をされておられ、校長室で理事長先生より書類や学校運営、或いは教育方針などについてご教示をいただいた。
 八洲学園大学の高校であることから、卒業したらぜひ大学に入学していただこうと心よりそう思った。生徒さんはひとりひとり輝いており、明るく挨拶をしてくれた。だれもが人なつっこい笑顔で話しかけてくれた。ちょうど買物タイムの時間で、町に出て必要な品物や食料などを買って帰った時であった。
 町から少々離れた場所にあるため、全員がバスで買物に出かける買物タイムであった。やがて広い海の彼方に太陽が沈んで夜になると、夕食後食堂で全校集会の時間となった。今日の催しはなんだろうとおもっていると突然テンポのよい音楽が流れ出した。ブートキャンプという激しい高いリズムに乗って踊る体筋運動が始まった中村教頭先生の指導で全員が二時間のブートキャンプに挑戦した。
 シェイプアップには最適な運動であり、私も参加させていただいたが、息切れがして二、三曲の所でリタイヤをしてしまった。それでも次の日の朝起床すると体のあちこちが痛く、筋肉がこわばっていた。いかに毎日が運動不足の日々であるかという思いがした。
 生徒さんの中にはスクーリングに写し出された筋肉トレーニングの姿を見ずに体全体で既に会得しておられるかたもいて実にリズミカルに軽やかにこなしていた。生き生きとして、はつらつで輝いていた。みんなそれぞれの目標と、意欲を持ってスクーリングに参加しているのである。努力はいつか必ず実ることであろう。

○「子どもの思想史(S)」がスタートします。

 秋学期から「子どもの思想史」が始まります。開学当初から関心のあったテーマだけに、今回、担当させていただくことになり嬉しい限りです。ただいま張り切って準備を進めているところですが、その講座から一言、申し上げたいと思います。

 現在、日本の法律では、20歳で「成人」を迎え、この日を堺に「大人」の仲間入りを果たすということになっています。しかし、最近ではそうした考え方を改め、成人年齢を20歳から18歳まで引き下げるべきだとする論調も見られるようになりました。外国には18歳で成人を迎える国が多く見られるようです。いったい、人はいつから、いかなる理由をもって、「子ども」ではなく「大人」と認められるようになるのでしょうか?

 ジュネーヴに誕生し、正規の教育機関を経ず独学で学習し、18世紀の社交界にいろいろな意味で物議をかもした思想界の異端児J,Jルソーは、『エミール』の序章で次のように述べております。

 「人は子どもというものを知らない。子どもについて間違った観念をもっているので、議論を進めれば進めるほど迷路にはいりこむ。このうえなく賢明な人々でさえ、大人が知らなければならないことに熱中して、子どもには何が学べるのかを考えない。かれらは子どものうちに大人をもとめ、大人になるまえに子どもがどういうものであるかを考えない。・・・(略)・・・とにかく、まずなによりもあなたがたの生徒をもっとよく研究することだ。あなたがたが生徒を知らないということは、まったく確実なのだから。」
(ルソー著、今野一雄訳『エミール(上)』岩波書店2007年改版)

 18世紀のフランスでは、「大人」は「理性の年(âge de raison)」とも言われており、『エミール』でも、25年間教師に導かれて成長した少年が、「生徒」ではなく「仲間」と呼ばれるようになるのは、「理性の年」を迎える青年期に達してからのことです。そうなると、「理性の年っていつからなの?」とか「子どもには本当に理性がないの?」とか新たな疑問がわいてくるわけですが、それはともかく、「20歳で成人を迎える」という考え方自体は、文化的に作られてきたものであり、そもそも自然界に、「子ども」と「大人」の区別を明確にする「しるし」があるわけではありません。

 人はいつまで「子ども」なのか、人はいつから「大人」になるのか。「大人」になるまえの「子ども」とはどういうものであるのか。現在の法定年齢をいったんリセットして、あなたもこの問題にアプローチしてみませんか?「子ども」への眼差しが変わるかもしれません。

「授業からの一言」(9):平良直准教授

 「居場所」

 先日、他の大学の教員をしている先輩とお互いの大学事情などについていろいろ話しをする機会があった。その折り、その先輩が語っていたことが印象深く心に残っている。曰く、「近年、ゼミの学生に対して意識して心がけていることがある。それは学生に〈居場所〉をつくってあげることで、これがあると無いのとでは大きな違いがある」とのこと。学生生活上の問題や、進路相談、学業の指導など、学生自身が大学のなかに居場所がないといろいろ問題が解決しにくいのだそうだ。逆に学生が大学のなかにどのような形であれ自分の「居場所」がある学生は活き活きとしているとのこと。
 「居場所」の重要性はキャンパスにおける学生生活に限ったことではないだろう。なるほど、われわれが日常生活をおくるにも自分の居場所がない状態は何か事をやり遂げるにもやりづらいであろうし、精神的にもかなり苦しい状態になることは容易に想像がつく。職場やある集団への参与など、特定の加入式や契約を経たのちに集団内でそこに居ることが許される場所や、友人関係のなかでの身の置き所など、「居場所」にはいろいろなレベルが考えられるが、ともあれ、われわれはこのいろいろな「居場所」をベースにしながら生きているといえるだろう。人間にとってそこに自分がいることが許されている「居場所」がないということほど生きづらいことはない。
 またこの「居場所」とはおそらくもう少しいうと、単にそこにいることが契約や権利でゆるされているということで居場所として十分かという必ずしもそうはいえない。自身がそこにいることに居づらさを感じればもうそこは<居場所>であることが危うくなっている。居づらさをよく考えていくと、どのような形でそこにいることが「許されているか」ということがおそらく重要な問題なのだろう。そこにいる見返りが期待され、評価や値踏みがその人になされる場合の許され方だと、「居場所」としては恒に危うい状態となってしまうであろう。「居場所」の重要な役割はこの危うさや不安からの避難場所であることにこそあるのであり、不安定な要素が入り込まない、欠点や不足も含めてトータルに自己の存在が受け入れられる場であるからこそ「居場所」になり得るのだともいえる。おそらく先の学生達が感じているのはこの種の「居場所」であろう。無条件に自己の存在が認められ、受け入れられる場ということでいうと、だれでも気づくことであるが、「居場所」の典型としてやはり家庭という場はひとつのモデルになるだろう。(この、自己の存在全体が受け入れられているはずの「居場所」である家庭において、値踏みや評価がはいりこんでくると悲劇である。)

「授業からの一言」(8):鈴木啓之准教授

 今後担当予定の授業について述べたいと思います。
 与えられたテーマから、授業では先天性あるいは発達期の障害児者を中心に展開してゆきます。厚生労働省統計で見ると成人以降の後天性障害者(事故や疾病、加齢による感覚・身体障害)が圧倒的に多く、機能回復訓練にとどまらず、社会復帰や自立のための訓練など、家庭の役割がとても重要です。みなさんにとっても決して他人事ではなく、事故や疾病、老化は誰にでも起りえます。障害があることは、「不便」ではありますが「不幸」ではありません。私の授業が、障害を乗り越え豊かな人生を送ってゆく、あるいは障害児者理解に役立てばと願っています。

 家庭にあっては、障害児教育は単に教育にとどまらず、医療上のケア「療育」が同時に必要です。本講では、医学・教育学の両面および障害者基本法等の制度面から障害児者の発達を支える家庭教育の役割について解説します。また、各論として障害の種別・範囲(視覚、聴覚、肢体不自由、知的障害、認知障害、重度重複障害、学習障害等)ごとに療育上特別に配慮すべき事項を説明します。

 発達障害者支援法施行および障害者基本法、学校教育法改正により、障害児教育が「特別支援教育」として全面的に見直され、特別支援教育と普通学校および家庭との関係が大きく変わろうとしています。本講では特別支援教育に関する理解を深めるため、特別な支援を必要とする児者への行政、特別支援学校、特別支援学級、普通学校の新たな役割と、障害児者の自立・社会参加を支援する各種運動について説明します。

「授業からの一言」(7):岸俊彦教授より

「全てのテレビを有料にしよう」

 心理学でモデリングの勉強をしたでしょう。その研究によると、人に悪いモデルを見せると、それを悪いことと説明しても、見た人は悪いモデルのまねをする傾向のあることが分かった。もちろん、良いモデルを見せれば、良いモデルをまねすることも分かった。
 ところで、日本のテレビ放送は、犯罪放送が多いね。例えば、HNKの7時のニュースを見てご覧なさい。視聴率の高いこの番組で、親殺し、子殺し親、見ず知らずの人を殺す、レイプ・暴力・泥棒・硫酸で自殺する方法等々次々と続く。こんな悪いモデルを毎日見せていれば、それを真似する人が出てくるのは、当然です。
 

 「曲礼に曰く、凡そ人の子たるの礼は、昏(くれ)には定めて晨(あした)には省みる。出づるには必ず告げ、反れば必ず面す。……」

 これは、今年からスタートした「伝統社会の児童教育論」という科目で、先日取り上げた講義資料の一つです。科目の目的は伝統社会における子ども教育の模様を紹介し、受講生の皆さんと一緒にその現代的意義を考えようとするもので、現在は昔、子ども教育書の定番であった『小学』の内容を垣間見ています。
 さて、引用文のことですが、現代風に解釈すれば、子どもに「おはようございます」「お休みなさい」の挨拶、また外出・帰宅の際にも挨拶や報告がきちんとできるように教えよう、というようなもの。そこで、授業のなかではこのような説明を付け加えました。「それはいってみれば、簡単で当たり前のことであるが、なぜか『小学』では至る所でこういう教えを繰り返し強調している。おそらくそのねらいは、親子間の愛情は基本的には自然な感情に基づくものであるが、それは無意識的な本能ではなく、道徳的自覚や実践を必要としているものなので、こういう普段の訓練を通じて子どもに親を愛し尊敬する品性を身につけさせる、という辺にあろう。あるいは、少し現実的な目で子どもへの期待値を下げれば、子どもから無視されないための最低限の訓練にもなるのではないか」、と。実際の子育て中の父親としての目線で、東洋古典の家庭教育・子ども教育論を捉えていきたいと思っています。

このアーカイブについて

このページには、過去に書かれたブログ記事のうち授業からの一言カテゴリに属しているものが含まれています。

前のカテゴリは家庭教育課程の教員よりです。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。