達磨大師の「緩浄善」
達磨大師の「緩浄善」
昨日 行きつけの理髪店で手持ち無沙汰なので、ある週刊誌を手に拾い読みをしていると、
五木寛之さんの連載小説が目にとまりました。 読み進むと、釈尊(お釈迦様)の話がでてきて、釈尊は29歳で妻子と別れ修行の道に入り、苦難の末 悟りを開いたと書いてありました。このことは夙に知れていることであり紀元前数世紀の遥か遠い世界の話と言う認識でした。ところがこれが遠い話ではなく身の回りにもある話であることを思い出しました。4年前私が会社勤めをしていたころのことです。世に言う早期定年退職制度を選択して、定年前に退職した仲間のことを思い出しました。彼はITのエンジニアで以前から仏教に興味を持っていましたが、お釈迦様と同様、退職を機に妻子と別れて1年間の修行の後 千葉のお寺の住職に納まってしまいました。みんな偉いなあとびっくりしていました。それはさておき、私もまったく仏教に興味がないわけではありませんし、現にビジネス禅と称する勉強会の世界で形式的且つお情けで、恥ずかしながら「燈山」と言う道名をいただいています。禅の勉強の中から一つを上記に関連して紹介します。釈迦から数えて28代目、禅宗の祖である達磨大師が150歳の人生訓(人間生物学的には150歳くらいまでは生きられとのことです)として、幸福の三原則を伝えています。
それは 「緩浄善」と言う言葉です。緩は目標に向かってゆっくり進みなさい、あわてるなと言っています。浄は清く、正しくそして楽しく暮らしなさいと言っています。最後の善はよいこと、よい行いをするよう心がけなさいと言っています。
私を件の仲間のように妻子と別れて修行できないので、せめて「善」それも一日一善と言われているように、よいことをすることです。ただこれにこだわると、堅苦しく、形式張るので、最近は人のために何かをする時間を30秒でも1分でも作ることにしています。人のために時間を割くことを目的とし、あまり結果に拘らないようにしています。そうすると誰かにこれをやってくれと頼まれても、人のために時間を作る、費やすと思えばいやな気持ちにならず、嫌なことでも腹も立たず気持ちよく出来ると信じ、今はささやかではありますが実行するよう日々心がけています。このような話は私の講義の中にも時々余談として紹介しているので、興味のある方は授業を受けに来てみてください。