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2007年6月 アーカイブ

2007年6月 9日

3【儒教の親学:修身-斉家】

「古之欲明明徳於天下者、先治其国。欲治其国者、先斉其家。欲斉其家者、先修其身。欲修其身者、先正其心。欲正其心者、先誠其意。欲誠其意者、先致其知。致知在格物。」
「古(いにしえ)の明徳を天下に明らかにせんと欲する者は、先ずその国を治む。その国を治めんと欲する者は、先ずその家を斉(ととの)う。その家を斉えんと欲する者は、先ずその身を修む。その身を修めんと欲する者は、先ずその心を正す。その心を正さんと欲する者は、先ずその意を誠(まこと)にす。その意を誠にせんと欲する者は、先ずその知を致(いた)す。知を致すは物に格(いた)るに在り。」(『大学』経一章)

有名な『大学』の「八条目」が示されている条文である。後ろから数えて、格物→致知→誠意→正心→修身→斉家→治国→平天下、の八条目となる。

儒教では社会・国家のあり方や運用原理と家庭のそれとを同一の延長線上で捉えてきた。家庭は社会・国家の縮小版であり、根幹である、という考え方である。そして、各家庭をきちんと治めて正しい方向に導いていくという「斉家」の責任は、その家の親(厳密には父)にあるという。ところが歴史的な現実としては、「斉家」を担う親の権威だけが一人歩きをし、いわゆる儒教の権威主義的な悪い親像が作り上げられてきた。しかし、八条目の内容を見て分かるように、「斉家」は、「格物」から「修身」までの五つの徳目の習得と実践を先に要求している。家庭を統率していく親の権威は、物事の道理に通じ(格物・致知)、心身のあり方を正しくする(誠意・正心・修身)という、親自身の人格の完成によって始めて権威として認められる、ということである。最近「親学」という言葉が話題になっているが、儒教では親自身の人格の完成を「親学」への第一歩と位置づけているのである。

2007年6月11日

4【親子の関係をよく維持していくための努力-孝と慈】

「為人子止於孝、為人父止於慈。」
「人の子と為りては孝に止まり、人の父と為りては慈に止まる。」(『大学』伝3章) 

世の中の事柄、いくら法律が整備され、社会・国家の運営システムが発達したとしても、結局のところ最終判断は人間、そして人間関係に頼るしかない。その人間関係のもっとも基本的なものが親子関係である。親子関係が崩れてしまっては、他の人間関係は砂上の楼閣でしかない。「孝」は親との関係をよく維持していくための、子側の努力であり、「慈」は子との関係をよく維持していくための、親側の努力である。

2007年6月13日

5【親の修身-人その子の悪を知ること莫し】

「諺有之、曰人莫知其子悪、莫知其苗之碩。此謂身不修、不可以斉其家。」
「諺にこれ有り、曰く、『人その子の悪を知ること莫(な)く、その苗(なえ)の碩(おお)いなるを知ること莫し』と。これは身修まらざれば、以てその家斉(ととの)う可からざるを謂う。」(『大学』伝8章)

情の偏僻(へんぺき)、溺愛を戒める言葉である。親というのは、子どもが外で何か事件や騒ぎを起こしたとき、他人の言葉よりもまずは自分の子の言い分を聞き、それを信じようとする。親としての自然の情であろう。しかし溺愛は警戒すべきである。子どもの過ちを正しく認識しなければならない。それも親の「修身」の一つの要件なのである。

2007年6月15日

6【すべての人間関係の基本-孝、弟、慈】

「所謂治国、必先齊其家者、其家不可教而能教人者無之。故君子不出家而成教於国。孝者所以事君也。弟者所以事長也。慈者所以使衆也。」
「いわゆる国を治るには、必ず先にその家を齊うとは、その家を教うべからずして能く人を教うるはこれ無し。故に君子は家を出でずして教えを国に成す。孝は君に事うる所以なり。弟は長に事うる所以なり。慈は衆を使うる所以なり。」(『大学』伝9章)

「孝」「弟」(=悌)、「慈」という家庭内の人間関係を律する徳目が、社会生活におけるすべての人間関係の基本であることを強調している。

2007年6月18日

7【子育ての第一歩-心誠にこれを求むれば、中ずと雖も、遠からず。】

「康誥曰、如保赤子。心誠求之、雖不中、不遠矣。未有学養子而后、嫁者也。」
「康誥(こうこう)に曰く、『赤子を保(やす)んずるが如くせよ』と。心誠にこれを求むれば、中(あた)らずと雖も、遠からず。未だ子を養うを学びて后(のち)に、嫁ぐ者は有らざるなり。」(『大学』伝9章)
「『詩経』「康誥」篇に、「赤子を養い育つようにせよ」、という言葉がある。真実な心から子どもを育てようとするならば、多少の試行錯誤はあるにしても、間違った育児にはなるまい。最初から子育ての方法を身につけて、結婚し母親になる人はいないのだ。」

書店にいけば育児法に関する本が本棚に氾濫している。その反面、母性がおかしい、壊れている、といわれたりもするこの時代である。子育てを具体的にどうするか、その方法論も確かに重要であろう。だが、現代人はそれ以前に、子どもへの真実の愛としての「母性」というもっとも大事な感情を忘れているのではなかろうか。

2007年6月20日

8【夫婦関係】

「君子之道、造端乎夫婦」
「君子の道は、端(たん)を夫婦に造(はじ)む。」(『中庸』12章)

事物の存在原理(君子の道)の始めを、外ならぬ夫婦関係に求めている。意外に聞こえるかも知れないが、儒教は夫婦関係の重要性を非常に強調している思想体系なのだ。それがどういうものなのかは、いずれ紹介しよう。

2007年6月22日

9【孝-親の志を継ぐ】

「夫孝者、善継人之志、善述人之事者也。」
「夫れ孝とは、善(よ)く人の志を継ぎ、善く人の事を述(の)ぶる者なり。」(『中庸』19章) 
 
*「人」:人間一般をいう言葉ではない。親・祖父などの祖先の意味。
 「述」:言葉をのべるという意味ではなく、継ぐ、継承の意味。
 
儒教でいう孝の具体的な徳目は多岐にわたっているが、まずはそのなかの一つ。
祖先の志と事業を受けて、よく成し遂げ、またよく継承していくこと。

2007年6月29日

10【親子の間の信頼関係-社会秩序の基礎】

「葉公語孔子曰、吾黨有直躬者。其父攘羊、而子證之。孔子曰、吾黨之直者異於是。父爲子隱、子爲父隱。直在其中矣。」
「葉公(しょうこう)、孔子に語りて曰く、吾が党に直躬(ちょくきゅう)なる者有り。その父、羊を攘(ぬす)みて、子、これを証せり。孔子曰く、わが党の直き者はこれに異なり。父は子のために隠し、子は父のために隠す。直きことその中に在り。」(『論語』子路篇)

親子関係(家族関係)を重視する儒教の考え方を象徴的に表している有名な言葉である。葉という地方を治める長官である葉公は、その立場からして、社会共同の利益・法秩序を優先し、父の非理を告発した子を「直き者」(正直な人物)とする。これに対して孔子は、たとえ父と子が社会的な罪を犯したとしても、互いにその非理をかばい合うことにこそ、正直の真の意味があると対応する。
儒教の独特の家族中心主義が全面に出ている話である。否、ともすれば、この話は、自分の家族の利益のために他人の正当な権利・利益を侵害してもいい、というような家族利己主義へと導きかねない。現代社会が追究する社会正義の側面からすれば、この主張はもう廃棄すべきものになろう。しかし、孔子のいわんとするところはそのような偏狭なものではない。この主張が現代においてもなお有効であるように見えるのは、親と子が互いに過ちをかばい合うその情には法も関与できないという、人間の最も基本的な本性、またそれに基づく人間関係の本質を衝いての発言だからである。親と子の間の信頼関係こそがあらゆる人間関係、すなわち社会秩序の基礎となるものだからである。

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