« 2007年6月 | メイン | 2007年8月 »

2007年7月 アーカイブ

2007年7月 2日

11【孝・弟-仁の世界を実現する方法】

「有子曰、其為人也、孝弟而好犯上者鮮矣。不好犯上、而好作乱者未之有也。君子務本。本立而道生。孝弟也者、其爲仁之本與。」
「有子曰く、その人となりや、孝弟(こうてい)にして上(かみ)を犯すを好む者は鮮(すく)なし。上を犯すを好まずして、乱を作(な)すを好む者は未だこれ有らざるなり。君子は本(もと)を務む。本立ちて道生ず。孝弟はそれ仁を為すの本たるか。」(『論語』学而篇)

*「有子」:孔子の弟子。性は有、名は若(じゃく)。孔子より43歳程若く、容貌が孔子に似ていたといわれている。
*「弟」:兄に対する弟の心ということで、「兄(年長者)を尊敬しよく仕える」という意味を持っている。「悌」と同じ意味。

 君子というものは、ものごとの根本的で本質的なことを重視し、その体得と実践に努める人である。根本さえしっかり確立しておけば、その先のことはそれの応用で自然によくなるものだ、と。そして、その根本的で本質的なものを、儒教は「仁」の徳目として提示している。「仁」とは、重層的で複雑な概念で、説明が簡単ではないが、敢えて一言でいうと、「愛の原理、心の徳目」となる。人と人との関係をよい状態に保っていくための心持ちであり、実践徳目である。他人を自分と同じく愛し尊重し、そうした心と行動の拡大によって社会の秩序と安寧を確保しようとする、儒教倫理のもっとも中心的な概念、それが「仁」なのである。
そしてここでは、そうした根本的で本質的な「仁」をなす方法がまさに「孝」と「弟」である、と位置づけている。自分の親と兄に対する愛の感情を基礎として、その愛の感情を周りの人に広げていくことによって社会秩序も確保できる、という論理である。前に紹介した「羊を盗んだ親」の話も、これと関連している。
ただし、ここでは子どもの親に対する「孝」、年少者の年配者に対する「弟」といって、下のものが上のものに仕えることだけを強調しているようであるが、そのような一方通行的なもので家庭も社会もうまくいくはずがない。親としての自覚(慈)、年配者としての自覚(友愛)も、当然要求される。それについてはまたの機会に紹介しよう。

2007年7月 4日

12【いい親像-威厳と慈】

「父母威厳而有慈、則子女畏慎而生孝。」
「父母威厳にして慈有れば、則ち子女は畏慎(いしん)して孝を生ず。」(『顔氏家訓』、教子第二)

家庭において「よい親像」とはどういうものなのだろうか。子どもの立場からすれば、厳格な父母というより、いわゆる友達のような親、このほうを選好するに違いなかろう。親側からしても、普通に考えれば、自分の子どもは誰よりも可愛いはずなので、子どもが要求するものを何でも聞いてあげ、甘やかしてやる、このような振る舞いがむしろ自然なのかも知れない。しかし、親には、子どもを一人前の人間として社会に送り出す大きな責任がある。家庭教育の重要性はそこから出てくるのだが、その辺を考えると、やはり教育的な「威厳」は人の親となる一つの条件として挙げるべきではなかろうか。もちろん、子どもへの愛情(慈)がその根底になければならならないというのは、いうまでもない。

2007年7月 6日

13【家庭の役割、親像-厳、正名論】

「家人有厳君焉、父母之謂也。父父、子子、兄兄、弟弟、夫夫、婦婦、而家道正。正家而天下定矣。」
「家人に厳君有り、父母の謂なり。父は父たり、子は子たり、兄は兄たり、弟は弟たり、夫は夫たり、婦は婦たり、而して家道正し。家を正しくして天下定まる。」(『易』家人卦、彖伝)

「家人」卦は、易64卦のなか、37番目に位置する卦である。家人卦の前の36番目は、「傷(きずつく、疲れる)」を意味する「明夷」卦となっている。そこで、「序」卦ではその両卦の位置づけを、「夷とは、傷の意味である。社会に出て傷つき疲れた者は、必ず家に帰ってくる。ゆえに明夷の次に家人卦がくるのである」、と説明する。競争原理が支配している殺伐とした社会生活のなかで、唯一癒される場所としての「家の役割」を、うまく表現したものといえよう。
そして、その家庭のなかでの父母像である。父母は子に対して権威を保って厳格に教育・指導を行うべきだ、という意味。
「父父、子子、兄兄……」は、いわゆる「正名論」というものである。上で「権威」という言葉を用いたが、親として、夫として、兄としての、「権威」だけを振る舞い押しつけるのではなく、それぞれの地位と名前にふさわしい自覚と行動を取らなければならない、ということ。もちろん、子どもは子どもとして、弟は弟として、主婦は主婦としての自覚と行動も、当然要求される。

2007年7月 9日

14【父親の姿勢-不可以狎、不可以簡】

「父子之厳、不可以狎。骨肉之愛、不可以簡。簡則慈孝不接、狎則怠慢生焉。」
「父子の嚴は、以て狎(な)るる可からず、骨肉の愛は、以て簡なる可からず。簡なれば則ち慈孝接せず、狎なれば則ち怠慢生ず。」(『顔氏家訓』、教子篇)

親子の間の関係、とくに父は子どもにどう接していくべきかは、今日においても家庭教育の重要な問題の一つである。顔之推はいう、「父と子との関係は厳(おごそ)かに保つべきで、あまり親しくしすぎてはいけない。とはいえ、家族の間の愛情はやっぱり大事なものなので、またあまり冷たくしすぎてもいけない。冷たい関係となれば、父子の間でお互いを思う愛情の心が空回りし、馴れ馴れしい関係となれば、親を尊敬しつつしむ心がなくなってしまう」、と。

2007年7月13日

15 【幼児教育の重要性】

「吾見世間、無教而有愛、毎不能然。飲食運為、恣其所欲、宜誡翻奨、応訶反笑。至有識知、謂法当爾。驕慢已習、方復制之、捶撻至死而無威。忿怒日隆而増怨。逮于成長、終為敗徳。孔子云、少成若天性、習慣如自然、是也。」
「近頃、世間の親たちをみると、子どもへの教育は疎かにし、ただ甘やかすばかりに終始している。日常生活の食事や起居・動作などをみても、子どもの恣に放置しておいて、咎めなければならないことを反対に誉めたり、叱りつけなければならない行動にむしろ可愛いと笑ってすましたりする。そのような子どもは少し物心がつく頃になると、世の中はそういうものだとばかり思ってしまう。驕慢の心がすでに身にしみてしまい、いよいよこれを直そうとして、厳しい体罰を加えても、もう出遅れでどうすることもできない。子どもは反って怒りだし反抗心を強めて親を怨んで、いうことを聞かない。ついには成長して駄目な人間になってしまうのだ。」(『顔氏家訓』、教子篇)

「三つ子の魂百まで」という諺があるが、まさにそれをいうものである。ここで顔之推は、品性教育は幼児の早い時期から始めるべきで、時期を逃すと、子どもの将来を台無しにしてしまうことにもなるのだ、と注意を促している。
子どもによる家庭内の暴力、または親殺害の事件がしばしばニュースに出ている。そういう事件を引き起こす全ての原因とはいえないが、ここで顔子推が指摘している、子どもへの甘やかしや幼児教育の怠慢も、重要な原因の一つであると思われる。顔之推が厳格な親像を要求しているゆえんである。吾が子どもを愛していればこそ、耳を傾くべき教えではなかろうか。

2007年7月18日

16【慈の中核-教育】

「人之有道也、飽食暖衣、逸居而無教、則近於禽獣。」
「人の道有るや、飽食暖衣、逸居して教え無ければ、則ち禽獣に近し。」(『孟子』藤文公上篇)

教育の重要性を主張している言葉である。「人には大抵そうなる傾向があるのだが、腹いっぱい食べ、暖かい服を着、怠けた生活を送ることである。それはそれでいいのだが、しかしそこに教育がなければ、人は動物と同じような存在となってしまうのだ」と。子どもに単に豊かな衣食住を与えるだけでは、本当の愛情とはいえない。正しい道に導いていく教育が伴わなければならない。この教育こそが親の「慈」の中核というべきものである。

2007年7月20日

17【子どもを愛していればこそ-労・誨】

「子曰愛之、能勿労乎。忠焉能勿誨」
「子曰く、これを愛しては、能く労せしむること勿からんや。忠ならば、能く誨(おし)うること勿からんや 。」(『論語』憲問篇)

*「忠」:君主または国家に対する忠といって、対他的な意味としてのイメージが強いが、「中+心」という字形が示しているように、元来の意味は「人間の心のなか(中)」をいう。『説文解字』では「忠は敬なり。心を尽くすを忠と曰う」と説明している。つまり、自分の心のまこと、またそれ(自分の真心)を尽くすことをいう。ここでは、子どもに対する親の真実の愛、という意味で理解すればいい。

子どもを愛しているからこそ、子どもの発展を願って、努力するように仕向け、また真実の愛(忠)であるがゆえに、忠告し教え覚らせるのである。

2007年7月23日

18【愛するに道あり】

「凡父たる者子を愛するは天道の自然なり。愛せずむは何以父と云べきや。愛するに道あり。能く子に物ををしへ、智深徳高からしめて、君の徳を正し、天下の政道を聞様に手ならはす、此を以て実の愛とする也。徒に愛して、理を以てあひせざる時は、彼鳥獣の其子を愛し、牝牛のおのが子をねぶりまはしたるに異ならず。」
「父母となって自分の子どもに愛情を持つことは極めて当然で自然なことである。子どもを愛せない者をどうして父母といえるか。ところで、その愛の表現にはしかるべきやり方があるのだ。ひとつひとつちゃんと物事を教え、知識と品性を鍛錬させて、主君によく仕え、國のための任務を立派に果たすように育つ、これを本当の愛というのだ。いたずらに愛して、そのやり方を知らないとすれば、それは動物の愛し方と同じで、たとえば母の牛が子牛の体を舐めて愛情を表現することと何の違いもないのだ。」(『惺窩先生倭謌集』「父子之事」)

江戸初期の儒学者である藤原惺窩(ふじわらせいか1561~1619)の文といわれるものである。「君の徳を正し、天下の政道を聞様に手ならはす」というところは、現代風に理解すれば、社会に出て、その任せられた責任・任務を果たし、役に立つ人物となる、という意味。

2007年7月28日

19【亡き父母の愛情と苦労を想う】

「蓼蓼者莪 匪莪伊蒿
哀哀父母 生我劬労」 
「蓼蓼(りくりく)たる莪(が)、莪に匪(あら)ず伊(こ)れ蒿(こう)なり。
哀哀たる父母、我を生みて劬労(くろ)す。」
「最初はおいしいヨモギと思ったのに、成長しては食べ物にならない雑草となってしまった。可哀想な我が父母、わたしを生んで本当に苦労なさったのだ。」(『詩経』小雅、蓼莪)
 
*「莪」と「蒿」は共にヨモギの一種。ここでは莪が成長して蒿となっていくが、莪は「美菜(おいしいヨモギ」、蒿は「賤草(食べ物にならない雑草)」として解釈する。父母からもらった資質はすばらしいものだったのに、父母の期待していた立派な人にはなれなかったという意味。「蓼蓼」は莪が成長していくさま。「劬」は骨折り苦しむこと。

私を生んで育ててくれた亡き父母の愛情と苦労を思い出して、その期待に満足に応えなかった自分を責める詩である。

2007年7月31日

20【父母の恩の広大さ、父母のあり方】

父兮生我  父や我を生じ
母兮鞠我  母や我を鞠(やしな)う。
拊我畜我  我を拊(な)で我を畜(やしな)い
長我育我  我を長じ我を育つ。
顧我復我  我を顧み我を復し
出入腹我  出入に我を腹(いだ)く。
欲報之徳  これが徳に報いんと欲するも
昊天罔極  昊天(こうてん)極まり罔(な)し。
「父はわたしに生命を与え、母はわたしを育ててくれた。
 わたしをなでさすり、やしない、そだち、大きくしてくれた。
 わたしを本当に大事にし、どこを行ってもわたしのことを考えてくれた。
 その父母の恩に報いたいと思っても、それはまるで極まりのない天のようだ。」(『詩経』小雅、蓼莪)

父母の恩の広大さを詠っている詩である。と同時に逆に親の立場を中心とすれば、その本来のあり方や役割の如何を諭している詩にもなる。

About 2007年7月

2007年7月にブログ「嚴錫仁の研究室便り」に投稿されたすべてのエントリです。新しい順に並んでいます。

前のアーカイブは2007年6月です。

次のアーカイブは2007年8月です。

他にも多くのエントリがあります。メインページアーカイブページも見てください。

Powered by
Movable Type