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2007年9月 アーカイブ

2007年9月 5日

25【五倫と三綱】

〈五倫〉

父子有親 父子親有り 
親子間の関係をよく維持するための最も大事な心構えは「親」(一つになろうとするしたしみ)である。
君臣有義 君臣義有り 
君臣間の関係をよく維持するための最も大事な心構えは「義」(状況に応じた正しい行動)である。
夫婦有別 夫婦別有り
夫婦間の関係をよく維持するための最も大事な心構えは「別」(各々の本分・職能を乱さない区別)である。
長幼有序 長幼序有り
年配者と若者の間の関係をよく維持するための最も大事な心構えは「序」(順序)である。
朋友有信 朋友信有り
友達の間の関係をよく維持するための最も大事な心構えは「信」(偽りのないまことの心)である。

〈三綱〉
君為臣綱 君は臣の綱(おおづな)たり
君は臣にとってその全行動様式の根本となる絶対的な存在である。
父為子綱 父は子の綱たり
親(父)は子にとってその全行動様式の根本となる絶対的な存在である。
夫為婦綱 夫は婦の綱たり
夫は婦にとってその全行動様式の根本となる絶対的な存在である。

前者の「五倫(ごりん)」は戦国時代に崩れてしまった家族倫理・社会倫理の立て直しを計って孟子(紀元前372頃~紀元前289頃)がそれ以前の教えに基づいて具体化したもの、後者の「三綱(さんこう)」は漢の武帝が中央執権化を推進するとき、それを支える理念として董仲舒(とうちゅうじょ、紀元前176頃~紀元前104頃)が考案したものである。
この二つの「五倫」と「三綱」はともに東洋の伝統社会のなかで、儒教倫理の核心的な概念として認識されてきた。だが、その内容は見てのとおり、同じではない。「五倫」は各徳目において相手との双務的・横的な関係を指向しているのに対して、「三綱」は服従的・縦的な関係を強調している。「三綱」概念は、言ってみれば、政治的・社会的に上に立っている者―部下に対しての上官、子どもに対しての親、夫に対しての妻、年少者に対しての年配者―の都合をよくするために作られた、「五倫」を「改悪」したものというべきかも知れない。
今の時代、儒教というと、個人の尊厳を損なう服従倫理、家父長的な権威主義、個人の自由を抑圧する理念的装置の代名詞として違和感を覚える人も多いと思うが、その原因の一端は間違いなく「三綱」概念が提供したのであろう。しかし、そればかりが儒教ではない。否、むしろ、それは改悪されたものであり、儒教倫理の本質とはいえないものである。
儒教のいう家族論理においても同じことがいえよう。むろん、理由はどうあれ、家父長的な権威主義・服従倫理も儒教の家族倫理が持つ一つの顔ではある。しかし、家族の危機がとりざたされている今日、儒教の家族倫理には現代人が耳を傾くべき多くの知恵が潜在されている。その点において、儒教の家族倫理の真面目を今日に必要なものとして再吟味し、その長所を積極的に開発することの意味は大きいのではなかろうか。

2007年9月 7日

26【日中韓における〈親子〉という言葉の意味】

 〈親子〉 
・日本語:おやこoya-ko /「父母と子ども」の意味。
・中国語:亲(親)子qīnzǐ(中) / 日本語と同じの意味。ただしこれは日本語からの借用で本来この言葉はなかった。
・韓国語:親子친자chin-ja / 「自分が生んだ本当の子ども」という意味。日本語の実子に当たる。「親子確認訴訟」といった法律的な用語に使われている。

最近、家庭教育の分野で「親子コミュニケーション」「親子関係」「親子で遊ぶ」などといった言葉をよく聞くが、同じ漢字文化圏の世界においてもその意味はまちまちである。当然、家庭教育や(日本語でいう)親子関係の模様もそれぞれ違うだろう。

先日、私と筑波大学の佐藤貢悦教授とが編纂中の《日中韓漢字通用小辞典》が毎日新聞で紹介され(8月28日)、また毎日放送とフジテレビでも内容の一部が取り上げられたので、このブログにも家庭教育に関係する一つを載せてみた。

2007年9月16日

27【親は直接自分の子どもを教えない】

「公孫丑曰、君子之不教子、何也。孟子曰、勢不行也。教者必以正。以正不正、継之以怒。継之以怒、則反夷矣。夫子教我以正、夫子未出於正也。則是父子相夷也。父子相夷、則悪矣。古者易子而教子。父子之間不責善。責善則離。離則不祥莫大焉。」
孟子に弟子の公孫丑(こうそんちゅう)が、「君子は直接自分の子どもを教えないというが、それはどういう理由ですか。」とたずねた。孟子は次のように答えた。「それにはしかたない事情があるからだ。というのは、教える方の親は子どもに必ず正しいこと教えようとする。しかし、親の期待通りにうまくいかないこともあり、その場合、大体の親は怒ってしまう。子どもに怒りを出すと、子どもをよくしようとしてしたことが、かえって子ども感情を損なう結果となる。そうなると、傷ついた子どもの方でも、親は自分に教えを押しつけるだけで、親自身は実行しない、という不満を抱くようになる。それでは結局、親子の両方で互いの感情を損なうことになってしまう。こういう状態は本当によくない。それで、昔は親同士で子どもを交換して教えたのだ。また、親子の間では善を責め合ってはいけない(行動の誤りをいちいち指摘してはいけない)。善を責め合うと、親子が気まずい仲になってしまう。これ以上不幸なことはないのだ。」と。(『孟子』離婁上篇)

『孟子』にみえる一節である。ここで孟子は、親自らが自分の子どもを教えるときの起こりやすいトラブルを、人間の自然的な感情に照らし合わせながら、実生活の側面で実感のある説明をしている。自分の子どもを教えるときの一番の問題点は、教えたとおりにうまくいかなかった場合、親が怒ってしまうことである。最初、子どもをよくしようとしてやったことが、親子の間で感情のこじれを生み、変な方向に流れていく。親子の間でもっとも大事なのは〈親しみ〉を保つことであるから(父子有親の意味)、そこでその愛情の関係を損なわないために考案されたのが、親同士で子どもを取り替えて教えるという知恵である、と。
もう一つ、孟子は付け加えて、親子の間で「責善」はいけない、と忠告している。それもやはり親子の親しみを保つ努力を重要視する表現であるが、何も隠すことのない親密な親子の間であっても、各自の自尊心・人格や感情に関わることは互いにしつこく追及しないほうがいいという、いわゆる近代的自我への配慮がこもっている忠告であることにも注意すべきであろう。
〈家庭教育〉、親が自分の子どもを教えるといっても、親子の間は他の関係よりも親密で身近い間柄だけに、かえって複雑で難しい面があるのである。

2007年9月25日

28【感情の制止-親の怒り】

前回、親は直接自分の子どもを教えないという『孟子』の一節を取りあげたが、今回はそれと関連して朝鮮時代の儒学者・李退渓の言葉を紹介しよう。親が怒ってしまう、という問題についての洞察である。

「若怒為外人発者、易於制止。而為家人発者、難制止者。於家人責望素重、而又在吾手下、故怒易至甚、而亦不屑於制止故爾。凡此皆工夫不熟。理不馭氣、而不免於任情害仁之病矣。」
「人間の基本的な感情の一つの怒りに関していえば、他人との関わりのなかで生じた怒りは制止しやすいが、家族に対してはなかなか感情の制止が難しい。それは、その人が家長の地位にいる者だとすれば、家族を率いていく責任が重いうえに、家族は自分が保護しなければならない存在だという意識がどこかにあって、怒りが起こりやすく、またその怒気の感情を制止しようとする努力も足りなかったことによる。いってみれば、(家長としての)修養が未熟だということである。理が気をコントロールできず、一次的な感情の発露にそのまま任せておいて、仁(ここでは家族を思う最も基本的な心情)を損なうという病弊を免れなかったのである。」(『退溪先生文集卷之十一』、答李仲久)

・李退渓(りたいけい、1501~1570):朝鮮時代の儒学者―より具体的にいうと、太極・理・気・心・性といったテクニカルタームをもって従来の儒学を再構築した新儒学、いわゆる朱子学の流れを汲む学者。日本の江戸時代の儒学(朱子学)の勃興・形成にも大きな影響を与えた。
・理と気:自然・社会・人間の存在原理を説明する朱子学の専門用語。簡単にいうと、気とは万物の運動と形成に直接関与している要素で、エネルギー的な概念。理とはその気の運動法則・存在根拠として、しばしば設計図に比喩される。

他人には優しく、家族には怒りっぽく厳しい親(父親)、今や非難され否定される親像であるが、一昔前、否、実は今でもよくみかける普通の親像ではなかろうか。他人とは違って、家族は身近い存在だけに、むしろ感情の制止が難しく、喜怒哀楽の一次的な感情が直線的に現れる。前回に紹介したように、孟子が、親はすぐ怒ってしまうから、親自身による子ども教育はやめたほうがいいとしたのも、こういう家族内部の事情を勘案しての説明だったに違いない。その点からすると、子どもに怒り出す親の気持ちも全く理解できないこともないが、それで良いわけではない。
そこで、李退渓は怒り出す親たちに向けて、怒りの感情は家長としての修養が未熟だという証拠で、家族の愛情や絆(仁)を損なうことになるのだ、と叱咤している。逆にいうと、幸せな家族を作っていくための親側の努力を促しているのである。

2007年9月29日

29【息子や嫁による親(高齢者)虐待】

「子曰、天地之性、人為貴。人之行、莫大於孝。」
「子曰く、天地の性、人を貴(たっと)しと為す。人の行いは、孝より大なるは莫(な)し。」(『孝経大義』伝5章)

孔子がいわれた。「天地の万物のなかで、人間ほど優れた存在はないし、人間の行為では「孝」より重要なものはない(なぜ人間が一番優れた存在になるかというと、人間は他の存在は真似できない「孝」という行為を行いうる存在だからである)」と。

何日かまえに、厚生労働省が行った高齢者虐待に関する調査報告が報道された。昨年度家族や親族による高齢者(65歳以上)への虐待が1万件を超えており、そのなかで半数以上が息子や嫁によるものだ、という報告である。高齢者に対する社会的制度の整備も緊急の課題ではあるが、子どもによる親虐待がこれほどの数字を占めている現状であれば、制度整備云々以前に、親子の絆をめぐるもっと大事なものをもう一度根本から考えるべきではないかと思う。儒教では、親に対する子ども側のあるべき姿勢を「孝」と表現し、家庭教育の欠かせない重要項目と定め教育を行ってきた。
「孝」については後にまた詳しく取りあげる予定であるが、とりあえずそのなかの一つを紹介してみた。

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