金魚で死生観を考える
こんにちは。
学生支援センターの秋山です。
今年のアカデミー賞で外国語映画賞を受賞した「おくりびと」。
たしか1月あたり、平日の昼間に一人で映画館で観ました。
びっくりするぐらいの号泣でしたが、とても考えさせられる映画でした。
「死」という重いテーマを扱う時には、
その「死」の対照となる「生」が実は隠されていることが多いと思います。
(それは生と死だけではなく、すべてのものに対してもあるのかもしれませんが。)
この映画のテーマも「死」でありながら、実は、「生」について問う映画だと思います。
話は変わりますが、最近、新書のタイトルが面白いと思いませんか?
ほとんどの本はネット通販で購入するのですが、
たまに立ち寄る本屋では、中身よりもキャッチコピーや
その本のタイトルで買ってしまうことが多いです。
先週、気になるタイトルの本があり迷わず購入しました。
「死んだ金魚をトイレに流すな -「いのちの体験」の共有」
近藤卓著、集英社新書、2009年2月
長年スクールカウンセラーをしてきた著者は、
10歳から12歳頃までに遭遇するいのちそのものへの畏怖感である
「いのちの体験」が重要であると指摘しています。
昔、飼っていた金魚が死んだ時、両親は、土に埋めて簡単な墓標を作り、
子どもたちと一緒に手を合わせました。
そして、しばらくの間は、その墓標を目にするたびに、「金魚の生」を
思い出していました。
しかし、最近では埋める場所がないとの理由でトイレに流す人もいるそうです。
そんな親や家族の行為を子どもが見たら、金魚の悲惨な長期に衝撃を受けたり、
動物が死んだらこういう風に処理をすればいいのかと
「死」について学習をしてしまうかもしれません。
生まれて初めて子どもたちに襲いかかる根源的な不安は、
子ども一人ではなく親や仲間とともに経験することが、
子どもを成長させる重要な鍵であると指摘しています。
他人や自らを傷つける子ども、他人の痛みが分からずに暴言や暴力を振るう子ども、
そんな「いのち」や「生きること」そのものを考えていない、考えられないのではないかと
思うような今日の子どもたちは、金魚が死んでしまっても、
トイレに流せばいいや、と思っているのでしょうか。
なんだか、少し切なくもあり、悲しくもなります。
そんなことを考えていたら、学生時代に勉強をしたデーケンの死生観を思い出しました。
生きることは、他の何かの命を犠牲にしているということ。
生かされて、生きている自分。
ともに生きているという感覚を大切にしていきたいたいと思います。
そんな週末、友達とモツ鍋を食べて、改めて、「いのち」について考えました。(笑)

このモツも、ニラも、何もかも。
まさに生かされて、生きている。
素晴らしきかな、我が毎日。
