ブログ事始め
書き込みテスト
「研究室便り」という看板でブログサイトを設けてもらってからかなりの時間が経ってしまった。これまでこのような個人のサイトを自発的に設けたことがなかったので戸惑いつつも、何を書けばよいのか、あるいは何を書かないようにすればよいのかいろいろ思案しているうちに時間だけが過ぎていってしまったというところである。このような弁解じみたことから書き出すのも不適切な「事始め」であるが、これから当ブログを書き足していくことになるとすれば、どうしても自分のブログなるものに対するイメージや思いこみ、あるいはスタンスのようなものを少しは書いておかなければと思うのである。
そもそも個人的には「研究室便り」というような、研究者が自身の研究などをモノローグで不特定多数の目に触れるようなところに掲示したりすることに正直いって抵抗がある。なぜ抵抗があるのかいろいろ思案するに、この抵抗感はいくつかの要因が複合的に絡んでいるようだ。うまく表現できないのだが、多くは心理的な神経戦をひとりで展開するのを避けたいと思うことがこの抵抗感の根にあるのかもしれない。ブログやホームページサイトなどは不特定多数の人間が目にすることができるというのはそれなりにストレスがかかるわけだが、どこの誰が書いているかはっきり分かるようにしておくことも下手なことは書けないという事になる。さらに、実はこちらのほうが心理的ストレスは大きいのだが、不特定多数に向けられながら心理的には自分を取り巻く社会的ネットワーク内での心理戦を回避したいとの思いがこの抵抗感を大きくしているかも知れない。日々思ったことや、日頃感じていることを聞かれてもいないのに発信するということは個人を取り巻く、限られた社会構成のなかではかなり危険を伴う行動でもあるからだ。このようなことに気を配り出すと、何を書いていけないかということにより大きな注意を払わなければいけなくなる。自分の所属するサークルや同業者やあの人やこの人がこれを読んだらどう思うかなど考え出したらきりがない。提示の仕方次第ではこのような心理状況を逆手にとって戦略的に共同体内でイニシアチブをとることができるということもあるかも知れない。
しばしば研究者のサイトで情報提供的なサイトなどがあり、感心してしまうが、かなり目的が明確でない限りこのような研究状況の提示には慎重になるのが普通だろう。すぐれた情報提供的なサイトは確かに少なからず存在するが、多くの研究者は暖めているアイデアや論文自体などを無防備に開陳することには慎重であり、実際、どの大学のホームページでも個人の情報発信的なサイトは総体的にはそれほど多くはないように見受ける。社会的要請からすればこのような研究者の情報発信はもっと多くなって欲しいところだろうが、専門的な情報発信ということが要請されればラフな報告や書き込みは、細心の注意が払われなければならないことになる。教育者としての勤め(努めではなく)としてこれをシラバスの詳細な開示として義務づけているかどうかは定かでないが、アメリカの研究者が学生に向けた授業計画や目的などはある程度進んでいるような印象をもつ。とはいえ、これはそれも教育や授業に関することに限られている。日本も同じ状況だろう。
研究者の情報発信的なサイトがそれほど多くないのは、これは文系の研究者だけに限らないのかもしれないが、「書く」という行為に対する一種の思いこみにも近いある種の文化のようなものがあるともいえるだろう。何かしら公開する文章を書くということは、研究者は論文が生命線であったりするわけだが、内容はそのままトータルな評価の対象であるということになる。サイトやブログを開設するにはこれはかなりハードルが高い。いわばそのままブログでの書き込みが仕事で文章をこさえることと重なるものとして意識されることが起こりうるわけである。こうなると片手間では出来ないはずである。練り込んだ「作品」あるいは考えたり感じたりした「成果」を開示することになるわけであるからかなりストレスがかかる。あるいは、作家にとって文章が生業の商品であるということで無料では書かないことにも似て、「書く」ということに特殊な意味があるのだと思っている人(研究者)もいるかもしれない。またはウェブ上には数多ブログやサイトなどが存在するわけであるが、これは多くが書くことを生業にしてない人たちのものだといった了解があるのかもしれない。
このように自分のブログ事始めに対する抵抗感の吐露から書き起こしながらも、その要因を書く段になると、自分の抵抗感を記述しながらあれこれ述べているのか、それとも一般論として述べているのか不明瞭になってしまう。一般論的なトーンがでるのはあるいは自分の思いこみが強いという証拠かもしれない。
そもそも巷のブログが面白かったりするのは、暴露的であったり、社会風刺的であったり、ラディカルな意見が歯に衣着せぬ言葉で語られたりすることがあるからだと思われる。これらのいわゆる「書き込み」は匿名性によって無条件にその力強さが担保されている。これらのいわばゲリラ的なウェブという空間の野放図なコミュニケーションの魅力や、ゲリラ的な力とは別の形でアトラクティブであるには精度の高い情報提供的な、もしくはアーカイブ的なものでなければ太刀打ちできないだろう。何でも有りの刺激に満ちたウェブ空間で「書く」ことにこだわりつつ何かを発信し続けるのはかなりしんどいことなのではないかと思ったりするのである。
と、かくも抵抗があるブログを始めようとするわけである。
ブログとは日記のようなものであるらしい。であればこの研究室の「ブログ事始め」はうえで述べてきたような抵抗感はひとまず自分に嘘をつかずに、そうであると確認して日記的に記したうえで始めてみようと思う。場合によっては、何を書いてはいけないかというようなことをあれこれ思案し一人で神経戦を展開した後で内にこもるようなモノローグに終始するかも知れない。本来的に日記であるということであればそれでも仕方ないだろうと思う。そう思いつつのブログ事始めであるが、「まてよ・・・。事始めの段階ですでに書いてはいけないことを書いているんじゃないのか・・・?」。このようなブログへの躊躇いと錯綜する思考が堂々巡りなのか、螺旋的なのかよく分からない。ともあれこのような一人で展開する神経戦はブログに対するある種の慣れを獲得するまでは続くであろうことは確かである。