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2010年4月25日

イソップ話に学ぶ・生きる力2 公開講座のお知らせ

芝桜武甲山.JPG

遠くに見えるのは、埼玉県の武甲山。そこから吹き降ろす冷えた空気は澄みわたり、まさしく冬の気配でした。しかし、目の前には春の芝桜が広がっていました。冬と春が、互いの領分を尊重し、互いが互いの個性を引き出して、見事な調和を見せてくれています。
 対立軸でものごとを考えがちな人間に、他者といることの意味を問いかけているかのようにも思えました。
 
 近年、子どもに規範意識の育成を、ということがいわれています。わがまま勝手な振る舞いが目立つからでしょう。約束やきまりをつくり、それに従わせることが、その解決策のようにもいわれています。
 しかし、おかしなもので、そうすると、互いを責めるようにもなってしまいます。
 約束やきまりを守っている人が、守っていない人を見て、「わたしは守っているのに、あの人は守っていない。」と言うようになるのです。そこには守っていない人を責める気持があります。すると、言われた人はおもしろくないから、反発を覚えます。言った人は当然のことを言ったのにと、これまた、自分の正しさに凝り固まって相手を非難してしまいます。調和どころではありません。対立が起きます。人は、よいことをしたい、きまりや約束は大切、という志をもっていても、うまく行かないのです。どう考えればよいのでしょう。

イソップ話に、『旅人とプラタナス』という話があります。
夏の暑い日、旅をしていた男たちは、あまりの暑さにへとへとになってしまいました。そこに、葉を茂らせているプラタナスの木を見つけました。旅人たちはその木の下の木陰に入って、しばらく休むと元気をとりもどしてきました。そして、枝に実がないことを知ると、「この木は実をつけない」「役に立たない木だ」と話すようになりました。それを聞いたプラタナスは、「この恩知らずども、今、わたしのおかげで元気になれたのに」と、旅人を責めるのでした。

さて、このお話をどう見るかです。この話を見て、旅人は身勝手だ、プラタナスはかわいそうだ...。旅人のような身勝手な子に注意をしよう...と、よい生き方を志すことができるかもしれません。でも...身勝手だと責められた子は、反発を感じないでしょうか。

旅人も、暑さにまいっているときには、実がある木よりも、暑さをさえぎる木陰がたっぷりある木が欲しかったのです。そして、木陰に入って元気をとりもどすことができたとき、のどの渇きを覚えたことでしょう。そのとき、初めて実が欲しくなったのでした。そこに旅人の置かれている状況があります。身勝手というよりも、「元気になった」「そういえばのどがかわいたよ」「果物がほしい」と、体が欲した自然の成り行きなのです。

思えば、プラタナスは旅人に木陰をさしかけ、実が欲しいという気持ちが起きるまでに回復させてあげることができたのです。そこまでが、プラタナスの領分でしょう。プラタナスは自分の領分をよく築いているのです。そして、「実がついていない」「役に立たない」という旅人の言に対しては、相手を責めることなく、「おめでとう。実が欲しくなるまでに元気になれたね。さて、今度は自分で実のある木を見つけてね。」と、相手にエールを送ることが、旅人の領分を生かすことになるでしょう。ここに調和が生まれます。それぞれが自分の領分を築き、他を責めることをやめ、エールを送ることで、プラタナスも旅人も幸せになれるのです。

きまりを守っている人は、そのことで張りのある生活ができている自分に充実感をもてているはずです。いわば自分の領分が築かれているのです。また、その雰囲気が、守っていない人にエールを送っています。その自分は誇らしくもあることでしょう。守っていない人を責める必要はないのです。エールを受けた人は自分の領分を整えようとするでしょう。
そのことを後押しすることで、調和が生まれ、規範意識を尊重する社会が生まれていくと考えることができます。人を責めては、心の育ちは望めません。

このように、イソップ話をもとにして、子どもの心の育ちを応援することを学ぶ公開講座を計画しました。関心のある方は、どうぞ、参加をお待ちしています。

 どなたでも、ご自宅のパソコンから、インターネットを使って受講することができます。

 学ぶ教室への入り口は、〔ここから〕です。

 申し込み書等、詳しくは、〔ここから〕 ごらんください。

1回目.5月10日(月)20:10-21:40
〔生きるということ〕イソップ話『屋根の上の仔山羊と狼』『羊と犬』等をもとに、勇気はだれにでも手に入る、他の人によって生まれる自分の価値等の観点を解説する。
2回目.5月17日(月)20:10-21:40
〔誠実に生きるということ〕イソップ話『冬と春』『胃袋と足』等をもとに、自分の生き方をどのようにとらえるか、自分の生き方をつくってくれるものの発見等を解説する。
3回目.5月24日(月)20:10-21:40
〔規範意識をもつということ〕イソップ話『羊飼いのいたずら』『肉屋と少年』等をもとに、子どものいたずらや言いのがれ、怠惰な生活等に対しての、前向きな対処を解説する。
4回目.5月31日(月)20:10-21:40
〔自立するということ〕イソップ話『じゃれつくロバと主人』『樫の木と葦』等をもとに、自立のしくみや、自立を指導するに際しての着眼点等を解説する。
※教材:当日、プリントを配信する。

2010年4月17日

イソップ話に学ぶ・生きる力 公開講座のお知らせ

桜の花と若葉.JPG

 桜の花もしだいに散り、若葉が顔をのぞかせるようになりました。若葉の季節です。まだ残っている桜の花が、若葉の到来を祝福しているかのようです。若い命が、けなげにもこれからの季節を生き抜こうとしています。
 
 さわやかさを感じさせるこの季節にも、悲しいできごとが報道されていました。取り込んだ洗濯物で子どもが遊んでいたので、親が物を投げつけて子どもに傷を負わせたというのです。きっと、日ごろから、子育てでいらだつことが蓄積されていたのでしょう。
 親は、だれしも、子どもを良い子にしようと、良いことを勧め、悪いことを止めさせます。子どもを育てることに、まじめになればなるほど...。しかし、その「悪いこと」は大人のする「悪いこと」とは違います。良い、悪い、を超えて、子どもの育ちを考えられる余裕が必要だと思うのです。

 よく知られているイソップ話『羊飼いとオオカミ』があります。オオカミが来たと村の人にうそをつく羊飼いの少年が出て来ます。この少年は、一見、悪い子に見えます。でも、子どもを育てる立場になったとき、この少年を悪い子と見なして良いのでしょうか。
 子どもも、そして、大人も、人を守るために、あるいは自分を守るために、やむにやまれず、うそをつくことがあります。そのことを省みずして、この羊飼いはうそをついたから悪い、と糾弾するのは、上っ面でものごとを考えていることになります。子どもを育てるときには、もっと、大らかな見方が必要なのではないでしょうか。

 このとき、羊飼いの心を想像してみるとどうでしょう。
 山の中にひとりでいて、村の人の羊の世話をしていた羊飼いの生活環境を補足したのち、「この羊飼いはどうしてこのようなうそをつくようになったのだろう」と問いかけることで、その羊飼いの暗い心底が想像できるのではないでしょうか。
「羊飼いは、一人で羊の世話ばかりをさせられていて、さびしかったのでは...」
「村人の羊の世話をしているのに、村人はだれもほめてくれなかったのでは...」
「村の人と一緒に遊びたかったのでは...」
というように、羊飼いの気持ちを想像することができたとき、それは、そのようなときにはうそをついてしまうかも知れないという自分の気持ちを見つけることになります。
 そして、そのようにして自分を見ることができたとき、うそをついた少年の悲しさが身に迫ってくることでしょう。それは自分にもそのようなときにはそうしてしまうかもしれないという気持ちがあるからです。そして、そうであっても、人とともに生きたい気持ちがあるから、そのようなことはしてはいけないという気持ちが湧きます。悪いことをしても、そのなかに、よい生き方を求めているのです。それを知らせてあげることが、生きる力を育てることになります。

 悪いことをしたからと、叱ることで教育をしていると、心に不安やいらだちが蓄積されていきます。不安はエスカレートしていく性質があります。ついには虐待という事態になっていくやもしれません。そうではなく、子どもが悪いことをしてしまったのであれば、それをしてしまった背景に思いを致すことで、叱るのではない、導き方が見つかることでしょう。イソップ話は、その手がかりを与えてくれます。


 そのようにイソップ話をもとにして、子どもの生きる力の育成を考える公開講座を計画しています。本学の学生の方も、また、その他の方も、受講することができます。
 詳細は、次のようになっています。ご自宅のパソコンにて、受講ができます。

講座概要
『イソップ話』の簡潔な話の中に秘められている人生模様をもとに、日本人の求める心の源流にある仏教思想や儒教思想を加味して、生きることの価値や生きる力の把握方法を解説する。自分に役立ち、親子の会話、読み聞かせ、学校での道徳の授業、心の悩みの相談等で、明るい生き方を知らせることができるようになる。

対象
親・道徳の授業をする学校や幼稚園の教員・生き方に指針を求めている人

日程と内容

1回目.5月10日(月)20:10-21:40
〔生きるということ〕イソップ話『屋根の上の仔山羊と狼』『羊と犬』等をもとに、勇気はだれにでも手に入る、他の人によって生まれる自分の価値等の観点を解説する。

2回目.5月17日(月)20:10-21:40
〔誠実に生きるということ〕イソップ話『冬と春』『胃袋と足』等をもとに、自分の生き方をどのようにとらえるか、自分の生き方をつくってくれるものの発見等を解説する。

3回目.5月24日(月)20:10-21:40
〔規範意識をもつということ〕イソップ話『羊飼いのいたずら』『肉屋と少年』等をもとに、子どものいたずらや言いのがれ、怠惰な生活等に対しての、前向きな対処を解説する。

4回目.5月31日(月)20:10-21:40
〔自立するということ〕イソップ話『じゃれつくロバと主人』『樫の木と葦』等をもとに、自立のしくみや、自立を指導するに際しての着眼点等を解説する。

※教材:当日、プリントを配信する。

申し込み等、詳しくは、〔ここから〕 ごらんください。

2010年3月16日

学校・家庭で学ぶ、たくましく生きる心得の條4> 自由とは何か

takenokaki.JPG

昨年の暮れのことです。知人から、宅配便が届きました。開けると中には、斜めに切られた竹筒が入っていました。以来、この竹筒は研究室の窓辺に飾られています。窓の向こうに一段と高く見えるのは横浜ランドマークタワー。そのランドマークタワーを前にして、この竹筒は伝統技の価値を示している気がします。

この竹筒を送ってくれた知人は日本刀の達人です。堅い竹を日本刀でもって一撃のもとに切り、花器としたのでした。

うぬ、見事な切り口。ノコギリやナイフ等ではなく、日本刀で、気合いとともに一気に切っていることに、すばらしい精神世界の存在を感じます。このようにきれいに切るには、これまでに相当の修練を積み、精神の鍛錬をしてきたことでしょう。

一瞬のうちに切られた竹は、気がつくと、節の内側が、外の光の中に存在していました。今まで、竹は、節で作った内部空間を守ることが自身の存在を示すことでした。その空間に明かりが射すことはなかったでしょう。節の内側は外の世界とは隔絶された世界です。それがあるから竹は丈夫であり、しなやかであり、強かったのです。しかし、切られたことで、はからずも、節の内側の価値を違った形で提示することになりました。

節の中は美しいです。閉塞感はありません。解き放たれた自由を感じます。節は底となっています。今までの節を生かし、新たな節のあり方を示しているのです。価値のあるものを、さらに価値のあるものにしていく、それが自由の価値でしょうか...。節(せつ)をつくることは生きる形をお仕着せることであり、自由はそれを自分にあつらえること...。

そのようなとりとめのないことを考え、三カ月ほどが経ちました。ときは、三月。ラジオから、アナウンサーの、「...三月は節目の時期にあたりますね。駅で卒業式帰りの若者を見かけました。みなさんの中にも、いろいろと節目を迎えている方もいらっしゃることでしょう...」という声が流れてきました。その、節目を迎える...、という言葉が、妙に心に響きました。そう、三月は、卒業、転勤、定年など、人生の節目が訪れる時期です。

思えば、学校や会社に、入学・入社することは新しい節(せつ)に入ることです。しかし、節の中は、決して楽しいことばかりではなかったはずです。いやなことやつらいこともあり、それを克服して行く生活がありました。ところが、いざ、節を出ようとするとき、それらはなつかしく、心地よい思い出になっているのではないでしょうか。節はいやなことやつらいことをお仕着せますが、人はそれを心地よいものにすることができます。人は、「節」を自分用にあつらえる「自由の力」をもつともいえるでしょう。

小学校の5・6年生で、自由をテーマにした道徳の授業が行われています。人は自由に憧れます。自分の好きなようにできるとうれしくなりますね。身の回りが快適な空間になるのです。しかし、あるとき、5年生の子どもが言いました。
「自由はつまらない。」
「どうして。」
「今日、家に帰ったら、何もすることがない。」
「のんびりできていいじゃない。」
「いや、つまんないの。」
「いろいろできるでしょう。」
「それって、めんどうなの。」
 自由はいいことですが、意外にも、することが決まるまではめんどうなことなのです。

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自由とは、自(みずか)らの由(よし)、と書きます。自分のよりどころが自由ということでしょう。由という文字の成り立ちを見ると、水筒のような、口が小さい壷の形をもとにして、由という文字が作成されているようです。そういえば、「由」の形は水筒の形です。口が小さいから、内にあるものは外には出にくく、内にたくわえることができます。そのようにして心の内に自分の思いが満ちることで、めんどうなことをめんどうなこととも思わない気持ちが生まれる、と考えることができます。

 その、自由についての授業を参観する機会がありました。1月の下旬、岡山県のある小学校で、先生と6年生による、自由をテーマにした道徳の公開授業が行われました。

わたしは、他の授業もあったので、途中からその授業会場に入ることになりました。すでに、資料となるお話を読み終わり、自由についての、意見が交わされていました。

「(自由というのは)自分はいいかもしれないけど、迷惑を受ける人もいる」
「(自由な行動は)他の人の自由を奪っている」
 自由について否定的な意見が出ていました。しかも、自由はいい、自由にしたいという思いを込めながらです。難しいところです。自由とは、どのように考えたらよいのでしょう。その課題は、その前に読んだ資料から起きているようでした。

 資料には、ある子ども会でのスキー合宿のようすが取り上げられていました。前の年、合宿の世話をした上級生は「きまり」を厳しくしました。しかし、それには不満が出ました。それで、今年の世話をすることになった上級生は「きまり」を少なくして、各人が「自由」にできる時間を増やしたのです。みんなは喜びました。ところが、合宿が始まると生活がみだれ、人に迷惑をかけるという事態になってしまったのです。上級生は昨年のように「きまり」を作ることも考えたのですが、せっかく始めたことなので、みんなに、自分で気をつけることを話して、もう一度、各人の自由に任せてみることにしました。すると、今度は、自分で気をつけることができて、楽しい合宿となったのでした。

 自由は、複雑に、心を動かします。子どもたちは、自由によって、人に迷惑をかける、ことを、どのように考えたらよいのか、悩むことになりました。

しばらくすると、ある子どもが、頭をひねりながら黒板の前に出て来ました。そして、自分が考えたこととして、「責任のある自由」と書きました。そのとき、なるほど、と思いました。自由を、他の人とのことで考えるのではなく、自分のことで考えるのです。責任とは、自分が引き受けたことに努めること、しなければならないという責めを自分自身に課すことです。自由とは、自分に任されること、自分の好きなようにできることです。この両者を関連づけてみると、責任は生活を守っていくために必要であり、自由はその生活の中で自分を主張していくために必要だという考え方が成り立ちます。それで、その両者を結びつけたのでしょう。なるほど...、と感心させられました。心の中に明かりがさしてくるようでした。

従来も、自由と責任という両者が並べられることはありました。しかし、それは、「自由もいいけど責任を果たして」というように、注意を促すような言い方でした。ここには、自由と責任を並列に並べ、自由は暴走するからそれを責任で食い止める、という思想があります。もっといえば、自由には悪があるのでその悪を責任で正す、ということにもなるでしょうか。それには、何だか釈然としないものを感じていました。

自由は人が真から欲するものです。その自由に悪を見て、それを正すことが必要、とするのでは、「自由」に道徳的な価値があるとはいえないでしょう。そこには、自由の善さの主張はありません。それどころか、人は悪に走る自由を欲するから、それを正すということになります。そのようにして生き方を正すのは、道徳ではなく、「しつけ」や「法」でしょう。生き方を考えるまでもないのですから。「生き方を考える」ことを重んじるのであれば、人の求める「自由」に善を見ることが前提となるはずです。また、それでこそ、「自由」を基盤にしての、学習指導要領にいう「自己の生き方を考える」作用を成立させることができると思います。

そういう思いも込めて、改めて「責任のある自由」という言葉を見てみると、さらに深い意味を感じました。責任と自由が並列ではなく、直列になっているのです。「責任をもつこと」と「自由にすること」を連ね、しなければならないことを「自分に任されたこと」として、前向きにとらえています。そして、それが、「自分の好きにすること」になるのです。ここには、自由の善さの主張があります。

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前に出ていた子どもは、さらに、図を描き始めました。頭をひねりながら、「責任のある自由」の回りを実線で囲みました。さらに、その線で囲んだ回りを点線で囲み、その外に「きまり」と書きました。(写真は再現したもの)そして、「自分の力がためされている」と言うのでした。表情はにこやかでした。みんなも納得した雰囲気で、いい雰囲気が生まれていました。

この図は何だ、...最初から授業に参加していなかったわたしは、このことの意味を探ろうとしました。点線は、目に見えない枠ということでしょう。すると、実線は見える枠。さらに考えると、見えない枠は意識していないところということでしょうか。見える枠は意識できるところということでしょう。で、考えてみました。

わたしたちの生活は、「きまり」という枠の中にありますが、そのきまりについては、普段、意識することはあまりありません。しかし、その、枠をとらえることができてこそ、その中に「責任のある自由」を意識することができるのです。きまりの枠を無視して、自分の好きなようにできているのは自由であるように見えて、実は自由ではなく自分勝手...。だから、自由はめんどうなことでもある...。自分できまりを察知しなければならないから...。自由についての考え方が、すっきりしてきました。

 さらには、「きまり」が点線であることにも、意味を感じました。きまりが点線ではなく実践であると、自由はなくなる...。先ほどの資料にあった、前年の、きまりを重視した合宿生活がそれでした。きまりに頼ると、自分の思いは働かなくなります。自分の思いを働かせることが、自分の自由度をアップさせることになるのです。そして、そのことは、子どもの言葉を借りると「自分の力がためされている」ことでもあるのです。いや、まいりました。まさに、たくましく生きる力の育成です。

 ...以上、自由についての思いを深めてくれた授業でした。道徳の授業は、見る者にも生きる力を与えてくれます。ありがとうございました。授業をつくりだしてくれた先生と子どもたちに感謝。

 人は、節(せつ)をつくり、その中で自分の生活を整えることができます。そこでは、きまりが支えてくれています。しかし、そのきまりが息苦しくなるときもあります。そのときには、そのきまりを視野に入れながら、自分のしなければならないことを、「自分に任されたこと」としてとらえてみましょう。きっと、自由度はアップし、心の中に明かりがさして来ます。

そういえば、この学校に行く途中に、おもしろいことがありました。前泊したホテルを出てタクシーに乗りました。8時40分ごろ、学校に到着してほしいと教頭先生から言われていたので、タクシーの運転手さんに告げると、運転手さんは快諾。目的地に、その時刻には到着できるとのこと。そして、念のために、カーナビを入れましょう、と言ってくれました。電話番号を告げると、目的地がインプットされました。ところが、カーナビが連れて行ってくれたところは、入り組んだ道で、とうとう袋小路になり、学校近くで迷ってしまいました。運転手さんは恐縮して、何度か近所の人に聞いては、車を大きな道に戻しました。そして、今度は、自分の感覚で運転を始めたところ、すぐに、学校の入り口を見つけることができました。そのとき、運転手さんは誇らしげでした。自由度アップの成果です。人は、自由度をあげることで、自分の価値を示すことができます。

 思えば、タクシーは「自由に」動けます。電車やバスのように「きまり通りに」動くことはしません。しかし、電車やバスは確実に目的地に到着します。その確実さがタクシーにはありません。そこで運転手さんは確実さを求めて、わざわざカーナビを入れました。わたしの頼みを大切に思ってくれたが故のことです。カーナビは、タクシーを「きまり通りに」動かそうとしました。それは、確実であり、自由ときまりのセットは、完璧に目的を遂行できるはずでした。しかし、あまりにもきまりに忠実に従うことが求められると、小さなきまりに手足をしばられ、制御不能となる...。そのきまりの限界を見限ったときの、運転手さんの人間力、見事でした。人の生き方を暗示しているようでした。

自由には不安が伴います。しかし、きまりに従うことも、確実ではないのです。節と自由、きまりと自由、それらの関係は対立関係にあるのではなく、互いのよいところを生かすためにある...ともいえそうです。運転手さん、あの日は寒い日でしたね。白々と夜が明けていくのを見ながらお客さんを待っていたと言っていました。ありがとう。あなたがかけてくれた気持ちの貴さを、今になって思います。

 

2010年3月11日

たくましく生きる>家族生き生きエッセー6

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『家族生き生きエッセー6』を発行することができました。
子どもが、そして、親と子どもが、家族とのふれあいを描きだしたものです。エッセーを寄せてくださった方々に、あつくお礼を申し上げます。
 
 作品の舞台となったのは、2009年の夏休みのことでした。
家族と一緒に自然の中に出かける。
家族と一緒に何かを作る。
家族と一緒にお盆という伝統行事を行う。
家族と一緒に地域のイベントに参加する。
家族と一緒に旅行をする。
家族と一緒に話をする。
これらのことを通して、生きることの楽しさと深さを知ることができました。
 家庭の中でくり返されていく、いろいろなできごとが人の生き方をつくります。

生きていると、大変な場面にも出会います。
時には、病気になることがあります。
時には、つらいことがあります。
時には、しかられることがあります。
時には、重たい気持ちになることがあります。
しかし、そのようなときも、視点を変えることで前に進む元気を出すことができます。

先日、ジャガイモを新聞紙の上に取り出しました。肉ジャガを作るのです。どこの家庭でも繰り広げられている光景でしょう。
さて、このジャガイモ、見ていると、何だか顔に見えてくるから不思議です。それぞれが愛きょうのある表情をしています。家族のようでもあります。
「ねえねえ、このジャガイモ、お父さんかな。」
「じゃあ、これは、子どもかな。」
ふさぎこんでいるときも、このように視点を変えることで、心には温かいものが生れてきます。

そのような豊かな感性は、日々の生活の中で作られます。この、家族生き生きエッセーがその一助になればと思います。家族が家族になっていく、その日々を大切に。

家族生き生きエッセー6は、以下の「家族生き生きエッセー」をクリックすると、閲覧できます。
また、冊子として必要な方は連絡をください。無料にてお送りいたします。

家族生き生きエッセー

2010年2月 8日

学校・家庭で学ぶ、たくましく生きる心得の條3> 愛校心とは何か


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朝日が昇ると大地が明るくなります。思えば、普通のことです。でも、普通のことに価値を見出せたとき、人は、より豊かな気持ちになっている、そんな気がします。この日の朝日を見たときがそうでした。この日の朝日は格別でした。

かつて、小学校には、尋常小学校というように、「尋常」という言葉がついていました。その、尋常という言葉には、「常(つね)を尋(たず)ねる」という意味がこめられています。「常」は普通という意味で、「尋ねる」とは問うことです。尋常とは、普通のことを問う、ということになります。普通のことですから、別段、問う気にもならないはずです。しかし、そこを、敢えて問うのです。普通のことだと思っていることが、実は大切なことであり、それを把握することが学校の使命だというのです。昔の人の深い思いに心が打たれます。

2010年1月15日、早朝。沖縄県本部町にある八洲学園大学国際高等学校に、朝日が射しかかりました(写真)。いわば、毎日の、普通に見える光景。その朝日の下に、すがすがしい顔で、先生方に別れの挨拶をしている生徒たちがいました。

前日まで、この高校では一週間の、「一月スクーリング」が行われ、日本各地から集まった約50名の生徒たちが、宿泊体験を共にしながら勉学にいそしんでいました。朝8:05のホームルームに始まり、22:10の14限の終了まで、生徒たちの規律ある生活が続きました。

一年間に一週間だけ、沖縄の校舎でスクーリング。他は自宅での学習で高校を卒業できる。この学習スタイルが、この学校の特徴です。

多くの学習を一週間にギユッと凝縮したスクーリングの時間割は決して楽ではありません。しかし、生徒たちは、学習に立ち向かいました。夜、暗やみの中に教室の明かりが煌々と照る様は、見る者の心を清浄なものにしてくれます。実は、そのような向学の志を育くむことも、この学校の特徴です。

毎月開催されているスクーリングは、それぞれ、異なるテーマを掲げています。生徒たちは、月ごとのテーマを見て、自分の気に入った月のスクーリングに参加するのです。1月スクーリングのテーマは「植物」でした。冬の、1月の、植物、です。沖縄ならではの設定。今回のスクーリングは、その植物に関心のある生徒たちが申し込んできたのでした。

テーマは、特別活動と総合活動での活動内容に反映されます。植物園に見学に行って植物の観察をする。そのことをもとに、植物を素材にしたカルタを作成する。また、植物の葉で沖縄の民芸品「ハブグワー」を作る。校舎の敷地に自生している植物の葉で「ムーチー」という餅をつくる。さらには、体育で、近くの八重岳に歩いて登り、緋寒桜という日本で一番に咲く桜の花を見る。...が、今回のスクーリングの特徴でした。

これらの活動は生徒たちに学ぶ意欲を起こさせ、友と語らう楽しさを味わわせるものとなりました。活動の一端を紹介すると...。

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「ハブグワー」は、細長い草の葉を蛇のハブの形に編み上げていくもので、ハブのように指に食いついたら離れないという、おもしろい民芸品です。しかし、その作成方法は先生方でも難しいものでした。が、生徒たちは乗り気で、楽しそうに、そして真剣に挑戦している姿には、とてもほほえましいものを感じました。

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また、「ムーチー」作りでは、グループの中で、リーダーが生まれ、そのリーダーの掛け声のもと、明るく協力している姿に、自分を乗り越えている姿を感じました。年に、一回のスクーリング。初めて顔を合わせる生徒たちも多かったことでしょう。全国各地から集まって来た生徒が、その孤独さをふりはらい、他の人とのかかわりをもつことには、思ったよりも気力が必要になります。それまで、他の人と語り合うきっかけをつかめなかった生徒もいたことでしょう。でも、少人数にグループ分けがされると、互いの役割が生まれ、活動する場が与えられます。それぞれが、周りの人に役立つ心地よさを味わっていました。

生徒たちは、自分で植物というテーマを選択したときから、意欲を芽生えさせています。そして、学校の授業で、先生や級友と一緒に植物にかかわることで、先生や級友との間に心のつながりをもつことができました。人と一緒にいることに喜びを感じることができるようになったのです。その喜びが自分を前に進め、他の教科の学習での意欲にも発展したのでした。

14日の夜には修了式が行われ、このスクーリングで卒業できることが明らかになった生徒たちが、一人ずつ、自分のこれまでの辛い思いや、卒業できることの感激を、全員の前で話しました。その堂々とした姿に、人が生きることの価値を見た思いがしました。

ある、生徒が、次のような趣旨の言葉を全員に語りかけていました。
「世界一だめなこの俺を、卒業させてくれた、みんな、ありがとう。」
この言葉に、思わず、涙ぐんでしまいました。生徒が、このように自分の心を整理できるということは、先生方の心が、そして、級友の心がいかに温かいものであったかということです。生徒は、人生の大切な場面を、確実につかんでいます。そして、その翌朝、朝日が、やわらかな日射しを射しかけたのでした。

学校とは勉強するために通う所だと、考えてみれば普通のことです。しかし、ふだんの生活の中で、その普通であることが、問いとなることがあります。学校とは何か。なぜ学校に行かなければならないのか。その思いにとらわれたとき、胸は苦しくなります。普通であることが、できないからです。この高校に入学した生徒たちも、以前、その思いにとらわれたこともあったでしょう。でも、その思いをめぐらせ、自分で行動することで、学校の価値を見出したのでした。

卒業認定を受けた生徒たちは、桜の花びらの形をしたカードに自分の思いを書いて食堂の壁に貼ります。食堂の壁には、卒業していった先輩たちの思いがずっと残されていくのです。その花びらの一枚一枚に書かれた言葉を見てみると、生徒たちのあつい思いが伝わって来ます。

「この八洲学園国際高校が大好きだよ。」「一生、忘れられない思い出ができた。」「自分に合った高校に出会えた。」「友達、先生、ありがとう。」「これから、がんばって生きて行くよ。」

短い言葉に自分の思いをギュッと込めて、みんなに発信する。簡単そうに見えて、勇気のいることです。しかし、それができる自分に成長しています。

この、貴重な生徒たちの体験をもとにすると、学校とは、先生や級友と共に学ぶことを通して、人と共に生きていく力を身につけ、生涯にわたって生きて行く足がかりをつかむ所であるといえるでしょう。学校での、先生や友達との思い出が、それを確かなものにするはずです。卒業後、学校への思いは、先生や友達と過ごしたことを懐かしく思うことに広がり、それがその時々の自分に返ってきて、元気や勇気を与えてくれるようになるのです。学校にはそのような価値があったのでした。生徒たちは、その学校の価値を自覚することができました。このとき、確実に人生の階段を上っている自分を感じているはずです。

近年、学力テストの成果を上げることが、学校の価値であるかのような風聞を耳にします。全国で何位、全県で何位、市内で何位。有名校に何人進学した...。人は、そうやって競争心をたきつけられると、つい、その枠組みの中でものごとを考えがちになります。人よりも遅れさせてはならぬ...それが教育であり、それを進めるのが教師であり、親であると。でも、世紀の祭典といわれるオリンピックも、メダルの獲得に奔走するばかりでは見苦しい人間性を映し出すことになるように、テストの結果に一喜一憂するばかりでは、さびしい教育観を露呈するようになる...そのような気がします。

もちろん、テストの結果も大事です。結果が得られるようにと、子どもを激励する。それで、教師、親、子どもに目標ができ、教育や勉学の方法もとらえやすくなります。勉強机に向かう。よい点数をとる。これらはよいことです。しかし、それを、教育の王道として、それだけが価値のあることだという意識をもつと、見失うものも出てくるのではないでしょうか。テストのことも、学校生活の中の、普通のことなのです。

人が生きるということはどういうことでしょう。子どもは、やがて大人になり、一人の人間として社会で生活するようになります。すると、ときには、つらいことやさびしいことに出会うでしょう。そのとき、学校で先生や友と学んだ日々を思い出すと、心は人間らしさを取り戻し、明日を見る力を呼び戻してくれるのではないでしょうか。学校の価値は、人が生涯を生ききるという視点をもって見たときに、大きな光を放ってくれます。

そのような学校の価値を学ぶトレーニングが、小学校でも行われています。5年生、6年生で、愛校心をテーマにした道徳の授業が行われるようになっているのです。愛校心とは、文字通り、学校を愛する心です。学校に価値があると思うから愛するのです。それは、学校に通う子どもたちの、誰もがもっている心でしょう。いわば、普通のこと、なのです。しかし、普通のことであるが故に、その価値を見失うことがあります。そこで、敢えて、その価値を問い正してみる機会をつくるのです。まさに、愛校心をテーマにして「尋常」の教育が行われることになります。

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先日、山形県天童市の、ある小学校にお伺いすることがありました。山形新幹線の車窓から見える景色は見事な雪景色でした。その中を「つばさ」は突き進み、難なく運んでくれました。そして、その学校で、5年生の、愛校心をテーマにした道徳の授業を参観することができました。「5年生が6年生になることの意味」を問いかけることで、学校を愛することの価値を明らかにしようとするものでした。その授業を参観して、学校の意味について、新たに気づくことがありました。授業をしてくださった先生、子どもたち、ありがとうございました。

授業に用いられた資料(お話)は、2月の学校行事「6年生を送る会」の、企画・運営を託された5年生が、今まで6年生がしていたことを思い出しながら、自分たちで実行し、自分たちの役割を果たそうとしたときのことを題材にしたものです。5年生は、よく計画し、全校のお世話をしようとしました。でも、下級生をうまくリードしていくことができません。そのとき、ゲストである6年生が率先して動いてくれたので、何とか無事に終えることができました。そして、会が終わった後、6年生から、わたしたちも失敗しながらここまで来たの、がんばってね、という励ましの言葉をもらったのでした。
 ここには、5年生が6年生に代わって、全校の世話をしようとすること、しかし、まだ、6年生のようには、うまくできないこと、でも、できるようになりたいという思いをもったことが描きだされています。

授業では、子どもたちは、お話の中の5年生の気持ちを想像しました。
「6年生、ありがとう。」「こんな6年生になりたい。」「6年生も失敗しながら、自分たちを築いてきた。」
そして、その5年生の姿に、6年生になった自分たちを重ねて行きました。

「低学年にやさしくする」「困っていることを助ける。」「自覚と責任をもつ。」「がんばる。」「何事にもチャレンジする。」「低学年にあいさつを元気よくする。」「みんなをまとめる」
この発言を聞きながら、子どもの感性は、素直で、すばらしいと思いました。お話の中の5年生に、自分の生き方の指針を感じているのです。

ある子どもが、「時間や行動を守る。」と発言しました。そのとき、先生が「今、できているかい。」と聞きました。子どもは「できていない。」と答えました。...今、できていないけれども、できるようにがんばりたい、ここに、6年生になることを契機にして自分をよりよくしたいという意志が出ています。自分一人では、つい甘えてしまうことも、下級生のためになる自分になりたい、と思って克服しようとしているのです。すばらしいですね。それを受けて、「下級生のためにがんばれ」と激励するのが、従来の方法でした。

子どもが、そのように思うことは、とてもよいことで、貴いことです。「学校のために尽くしたい」、「下級生のために尽くしたい」。これが誤っているとは、だれも思いません。よいことなのです。しかし、そこには、考えてみなければならないことがあります。

~のために尽くす、ということ、それ自体は美しいことです。でも、であるがゆえに、自身も、周りの人も、それをコントロールすることができなくなるのです。時には、行き過ぎとなることもあるでしょう。善かれと思ってしていることですから、際限がないのです。過ぎると、「私は下級生のために尽くしているのに...」という不満も出るでしょう。同じことをしている同級生に向かっても、「あなたのやり方はだらしがない」という、一喝が出てしまうかもしれません。また、先生からの指示を、必要以上に重く受け止めることがあるかもしれません。それらは、学級に、恐れや物言わぬ従順さをつくり出します。

かつて、国家のために、地域社会のために、家のために、お父さん・お母さんのためにと、声高々に叫ばれた時代がありました。しかし、それは、人々が幸せに暮らす社会の形成には結びつかなかったのです。まして、今は、一人ひとりの、個人としての価値が重視されている時代です。他に尽くすことがよい、では、今の時代にはそぐわないでしょう。どうすればよいのでしょう。

そこで、この、愛校心のところで思い返してみると、学校のために尽くすことはよいこと、6年生になったらそれを心がけなければならないと、子どもたちのだれもが思っていることがわかります。そこで、その当たり前のことを念押しするのではなく、そのことが、どうしてよいことなのかという、「尋常」の学びを展開することが考えられます。

そう思ったのは、授業中、先生が次の発問をしたときでした。
「こんなこと(低学年にやさしくする、がんばる、みんなをまとめる等)ができたら、どんないいことがあるの?」
これには、子どもたちは困りました。
でも、いい発問だと思いました。子どもたちは、わからないから、考えようとします。
下級生のためにすることは、いいことです。でも、それが、新たないいことを生み出すって...。
そんなぁ...。

しばらくして、ある子どもが考えにつまったように、ぽつりと言いました。
「普通。」
それ以外に、どうも考えようがないというようでした。
先生も、「そうか、がんばっても普通のことか」と、考え込みました。

ここに、普通の生活の中にある価値を問う場面ができました。普通の生活の中に意味がある、しかし、それは何?釈然としません。...ここが、授業の一番の見所でした。先生が考え込み、子どもたちも考え込む。学習指導要領にいいます。「道徳の時間においては...自己の生き方についての考えを深め...」まさに、この場面のことでしょう。

重苦しい雰囲気になってきたとき、先生が、6年生からもらったというメッセージを読み上げました。そこには、自分たちが行動することで、自分たちや下級生の中に、笑顔、協力、励まし、団結が生まれ、それを見て、成長していけたことが紹介されていました。子どもたちは、知らない世界を知ることができたのでした。

6年生としての普通の生活が、人に、そして、自分に、笑顔、協力、励まし、団結をつくりだしていくのです。そして、そうすることが自分を成長させることなのです。ここに、「みんなのためにがんばりましょう」という、うわべのことで終結させない工夫がありました。みんなのために生きることは、自分の生きる力を導き出していくことだったのです。

さらには、校長先生が、子どもたちの前に立ち、「母校」という言葉をもとにして、自分がこの学校の卒業生であり、この学校が母校となっていること、何かの折に、ふと、この小学校で過ごした子どものときのことを思い出すこと、それが自分を元気づけてくれること、さらには、この学校の卒業生が今までに約12000人いて、子どもたちがそれに続くこと、を話されました。

このことによって、子どもたちは学校ということの価値を、さらに大きな視野でとらえることができました。学校は、卒業後も、心の中に、母校として存在し続けていくのです。今、学校でがんばっていることの思い出が、将来の、自分の生きることを支える...。だから、学校は大切なところなのです。学校は、人の一生を後押ししてくれます。しかも、その学校は、歴代の卒業生によってつくられてきたから、ここにあるのでした。

ある子どもが、この学習で学んだこととして、次のように発表していました。
「不安なこともあるけれど、恐れないことが大切。」
いい言葉だと思いました。自分の生き方を、きちんと見ています。

学校は、子どもをたくましく育ててくれるところです。子どもが、そのことを自覚したとき、学校は、子どもにとって、真に楽しいところになる...そう思ったとき、なぜか、わたしの心もシャンとしてきました。子どもに、真摯に生きることの価値を教えられたのです。
ありがとうございました。

2009年12月 5日

学校・家庭で学ぶ、たくましく生きる心得の條2> 命とは何か


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ひたすら歩き続けました。先週の土曜日、11月27日のことです。大分県竹田市の駅前から山奥に向かって歩き続けること8時間。たどり着いたところは、久住山のふもと、熊本の阿蘇の山々さえもが見える久住高原。高原の野は茶色に冬枯れて、梢の向うには太陽が降りていました。これぞ、待ち焦がれていた景色、わが青春を導き出す道標でありました。

 わたしの卒業した高校は大分県竹田市にあります。その時の同級生から、還暦を祝う同級会を久住高原で行うので集まりませんかといううれしいお便りをいただいたのは、三カ月ほど前のことでした。そう、わたしは、今年、還暦なのです。

高校のときの一番の思い出は42キロを走る強歩大会。学校を出発して、久住山のふもとまでの42キロを、駆け上がり、駆け下りました。それは、辛い苦行でした。1年生のとき、2年生のとき、その辛さに耐えて走った記憶があります。しかし、どう思い返してみても、3年生のときの記憶がないのです。そして、はたと気がつきました。何と、わたしは、3年生のときの強歩大会をサボっていた...。大学入試を前にしての模擬テストがあり、その重圧に屈して、勉強しなければと、机に向っていたのでした。小心者でした。それだけ追い詰められていたといえばそれでもすみそうですが、しかし、それではさびしい。入試と強歩は、表裏一体のものであって、自分を高めるものであったはずです。それを見失っていた青春のの蹉跌。今にして思う悔恨。同級生のみんなは走っていたのです。そのみんなに会える自分になるために、今回の同級会に、強歩で臨むことにしたのでした。但し、歩きで。

 歩き始めて、二時間、三時間、体調は快適でした。秋の深い山々を見て歩いていると、若かりし頃見た景色が、感慨をもって迫ってきます。しかし、四時間を過ぎたあたりから、惰性で歩いているとしか言いようのないような、無気力の状態となりました。孤独と、きつさと、つらさが、合わせ技で心を絞めつけます。

そして、そこから来る寂寥感や無力感がピークになると、「もうやめよう」「いや、もう少し」「何という馬鹿なことをしているんだ」「いや、過去にくぎりをつけるよ」「そんな、今まで、高校のときのことなど気にしないで来たのに」「まあ、まあ、そう言わずにもう少し進んでみるか」...などの、ぐちにも等しいひとりごとが、脳裏をかすめて行きます。それが、壁の出現と、それに立ち向かう自問自答なのでしょう。

壁ができるから自問自答をするのか、自問自答をすることで壁ができるのか、今まで前者だと思っていたのですが、今度のことで後者のような気がしてきました。壁も、自問自答も、己がつくり出すのです。自分のしていることに価値を求めるからこそ壁ができ、それに立ち向かおうとするから、前に進む力が出るのでしょう。

それに比して、人がつくった壁だという認識であれば、その壁があることに責任は感じません。壁を壊してしまうことだってできます。しかし、それでは、前に進むことにはなりません。単なる、わがままを主張することなのです。若き日、強歩をサボったわたしがそうでした。今回、壁は自分でわざわざつくったのです。立ち向かう自分がいるからこそ壁もあるのです。壁が壊れそうになるとき、それをつくり続けることが、前に進む力を自分の中から引き出すことになります。

そう思い直しては何度か壁をつくり直し、その壁に立ち向かうことで、みんなが集まっている会場に到着したのでした。集まっている人たちの顔を見ながら、高校のときの顔を想像します。なかなか、思い出せません。しかし、胸につけた名札を見たとき、高校のときの顔と今の顔が一致します。その顔の違いが、その人に人生があったことを物語っています。この会を計画し、運営してくれている級友に感謝しながら、60年間生きてきたことを共に祝うひと時を過ごしたのでした。

 思えば、高原に向けての8時間の強歩。よくもまあ、そのようなことができたものです。翌日の、帰りの飛行機の中で思い返しているとき、ふと、気づくことがありました。これが、40歳や50歳のときであれば、このようなことをしたいという気持ちが起きただろうか、いや、起きなかったであろうと。60歳であるからこその気力であるのです。生きることが終焉に向かわんとするとき、命は、また、別の味わいを求めるということでしょうか。

翌週、神奈川県のある小学校で、6年生を対象にしての、生命尊重をテーマにした道徳の授業を参観することができました。「生きることの意味」を問いかけることで、命の大切さを明らかにしようとするものでした。その授業を参観していて、命の意味について、今まで以上の思いを抱くことができました。授業をしてくださった先生、子どもたち、ありがとうございました。

授業に用いられた資料(お話)は、ある少年の家で、おばあちゃんが亡くなったときのことを題材にしたものでした。そのおばあちゃんは、年をとっても、毎日のように、近所の小高い山に登っては清掃活動をしていました。その山は見晴らしのよい山で、多くの人たちが訪れ、楽しんでいる山です。その山に登り、掃除をすることが、おばあちゃんの日課のようになっていたのでした。家族が体のことを心配してやめるように言っても、おばあちゃんは続けました。少年は、そのことを思い出し、おばあちゃんの生き方をしのぶのでした。

授業では、子どもたちは、そのおばあちゃんについて、「つよいおばあちゃん」「何でおばあちゃんは苦労をすることが続けられるのか」「そうじをすることで笑顔になるおばあちゃん」という感想をもつことができていました。その発言を聞きながら、子どもの感性は、とてもすばらしいと思いました。お話の中のおばあちゃんに、自分の生き方の指針を感じているのです。そして、これらの発言をよく吟味してみると、その中に、おばあちゃんの命が生み出したものが表現されていることに気づきました。それは、「つよさ」であり、「苦労が続けられること」であり、「笑顔」です。それらは、生きることにとって価値のあることです。

生きることとは、このような価値のあることを生み出していくことではないか、それを生むものが命であり、だから、命は大切なのではないか、そのように考えて行くと、その大切さを生み出していく「命の作用」はどこから来るのかを見極めたくなります。授業中の子どもの発言にあった「何でおばあちゃんは苦労をすることが続けられるのか」という命題が、まさにそれです。それを考えることによって、人に生きる力を湧かせてくれる心の実態を知ることができます。

先日の新聞にあった「自殺者が3万に増加」という見出しに心が痛みます。人には、死ぬことよりも、生きることが辛いと思ってしまうこともあるのです。そうなったときに、自分の生きる力を出せる、その出所があることを知らせることが、今の教育に必要なことであるように思います。思えば、このお話のおばあちゃんには、自分の人生を推し進めた、生きる力の出ているところがありました。

おばあちゃんは、毎日のように近くの山に登りました。そのことから、山が「好きだった」のではないかということが想像できます。当初は、単に山に登ってみようかという、ちょっとした関心だけであったのかも知れません。しかし、自分の足で登れたことが爽快感を味わわせてくれたことでしょう。そして、何回か登っているうちに、山の空気や、そこで出会う人たちが気軽にかわすあいさつに心がやわらぎ、好きになっていったのではないでしょうか。

また、その山に登る人たちがゴミを散らしても文句を言うのではなく、ゴミを拾うことを日課のようにしています。山をよごさないでと、山を守ることが第一義にあるのではなく、山に登る人たちがいることがうれしく、その人たちがきれいな景観を喜んでいたことに「喜びを感じていた」ことが想像できます。いやになることもあったに違いありません。しかし、そのとき、「喜び」を思い返すことによって、自分の思いを強くしていったことでしょう。壁を自らつくり、それに立ち向かうことが、自分の精神性を高めていくのです。

さらには、人々がそれだけこの山に登って来るということで、地域の人はこの山を誇りに思っていることでしょう。その地域社会の中に身を置き、地域の一員としての行動に「うれしさを感じていた」のではないかということが想像できます。

ここに、おばあちゃんの生き方を支えていた心の実態があります。おばあちゃんの生きる力は、おばあちゃんが、地域の山、人々、地域社会にかかわり、「好きなことがある、喜びをもつ、うれしさを感じる」、という心の働きを得て、生み出していたともいえるでしょう。だから、苦労を続けられるのであり、つよいのであり、笑顔になるのです。

このことから、故郷の山や自然を好きになること、周りに人がいることやその人にかかわれることに喜びをもつこと、身近な社会の中にいることにうれしさを感じることで、生きる力を出せるようになることがわかります。

生きることがつらくなったときには、周りの自然に目を向けるようにする、人に喜ばれることをする、社会の中に身を置くようにする。そうすると、そのことが、自分に生きる力を生み出すことになるのです。学校や家庭で、子どもの心の教育に悩んでいる先生方や、お父さん・お母さんに、そのことを知らせたいと思いました。

そう考えたとき、今回の強歩にあたり、わたしを支えてくれた生きる力の出所を知ることができたような気がしました。昔から親しんだ久住山という山があり、同級生というわたしを迎えてくれる人がいて、故郷という社会があったのです。だから、8時間を歩くことができたのでした。
 
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その翌日は、高校以来、クラスメートとの、40数年ぶりのバス遠足。車窓には冬の高原が広がっていました。(写真は、大分・熊本の県境、瀬の本高原)

かつて、青春のとき、この瀬の本高原を通って、阿蘇山までバス遠足に行きました。その仲間も、それぞれに、朱夏のとき、白秋のときを経て、玄冬のときを迎えようとしています。それは、その人なりの人生が、命によって生み出されてきた事の帰結なのです。その、それぞれの人の人生に敬意を表することで、わたしの人生もまた、意味を成して行くように感じました。みなさん、ありがとうございました。

生きるということは人生を生み出すということ。
人生は壁を生み、それに立ち向かう気力を生む。
命は、それを、そうならしめるもの。
だから、命は貴重であり、尊い。ということを知らせてくれた、同級会でした。

2009年11月 7日

学校・家庭で学ぶ、たくましく生きる心得の條> 謙虚とは何か


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 帰省したとき、黄金色の田んぼが広がっていました。
 この稲穂のようすをたとえにして、
 「実れば実るほど、頭をたれる稲穂かな」という「ことわざ」があることを思い出します。

 かつて、中学生の頃でしたか、このことわざをもって母に諭されたことがあります。確か、生徒会の仕事で奔走していたときでした。そのときには、何だか水を差された気がして、「まあそんなに言わんで...。」と、心の中でひそかにあらがう自分がいました。言っていることの意味はわかるのですが、なぜか、素直には、心に入って行きませんでした。

 人は、けん命にしなければならない仕事が続くと、自分に厳しくなります。そうすると、仕事は人にかかわることですから、周りの人には、おうへいな態度となって映ります。このことわざはそれを戒めるために、稲穂の穂先が垂れることを例にして、人に頭を下げることの大切さを教えたものだ...と思っていました。...そして、そうすることが、謙虚であると。しかし、言われた当事者は、自分のためだと言われても愉快ではないのです。当事者の心にさわやかさが訪れてこその、よく生きるための指針となるはずです。そこにあるはずの、道理とはどのようなものなのでしょう。

 田んぼには、父と母が丹精をこめて育てた稲穂が実っていました。黄金色に広がる稲穂の中に、穂先が少し沈んでいるところがあります。穂がよく実って、重たいからなのです。しかし、稲の茎が倒れるまでには至っていません。そういえば、ここのところの兼ね合いが難しいのだと、子どものころ聞かされたことがあります。
 
 肥料を効かせれば穂は十分に実る。が、穂が重くなると、風雨の強いとき、稲の茎は地面に倒れる。そうなると、実は地面の水を吸って品質が落ちる。豊作を求めて肥料を多くやりたいのが人情。しかし、十分に実らせることがよいのではない。というのです。稲自身にしてみれば、倒れるまでに実ることを望んでいるはずがありません。人の欲が、稲に、余分な負担をかけるのです。稲の側に立って育てることが大事なのだと子どもながらに思った記憶があります。目の前の田んぼはセーフでした。

 そんなことを思い出していると、「謙虚」ということにある道理を考えるのに、稲の側に立って、実りの喜びを見てはどうかという気がしてきました。穂が実ると、稲は倒れないように力を出そうとし、それがかなうことで実りの喜びが味わえるのではないか。そして、そのことが、自分を育ててくれた人に収穫の喜びを与えることになる。何だか妙ですが、そのような努力と喜びの相関関係があるような気がして、その、自分を倒れないようにする努力とそれがもたらす喜びによって謙虚の価値ができているのではないかと思ったのでした。自分を倒れないようにする力の出所を知ることが、謙虚の価値を知ることになるようです。

 それから数日後、神奈川県のある小学校の5年生で、「謙虚」をテーマにした道徳の授業が、研究授業として行われ、それを参観することができました。そして、それを見ていて、その、「自分を倒れないようにする力」についての思いを深めることができました。授業をしてくださった先生、授業をつくり出した子どもたち、ありがとうございました。

 その授業で用いられたお話(資料)は、全校をあげて催されるスポーツ大会に出るために、ある学級の中に実行委員が選出され、その実行委員の奮闘ぶりを通して、謙虚とは何かを考えさせるものでした。
 実行委員になった子どもは、自分たちの学級が全校の中でよい成果を出せるようにと、特別練習を組みます。ところが、その練習に出てこなかった子どもがいました。実行委員の子どもや他の子どもたちは、練習に参加しなかった子どもを責め立てます。すると、その子どもは、顔をくもらせながら、練習に出て来ることができなかった理由を言いました。それで、みんなは納得したのでした。そして、それ以後、実行委員の子は、休む人がいても責めることをせずに、かえってそのような子に温かく接するようになりました。それによって学級にまとまりができ、仲良く練習ができるようになったとのことでした。

 実行委員になった子どもは、その仕事を引き受けたことで、学級のために何とかしなければという思いが強くなります。そして、そのための方策、特別練習を立案し、全体をリードして行こうとします。頭の中は練習をさせなければという気持ちで満ちていて、「実る」状態です。そして、そのことによって、自分の思いに反する人を矯正することが、自分のすることだと思ってしまうのです。

 しかし、練習を休んだ子どもが沈痛な思いでその理由を言ったとき、気づいたのではないでしょうか。「そうか、君も練習には出たいと思っていたのか」「練習には出たいのに、急に別のことが出て来て、練習には行けずにつらい思いをしていた」「かえって、他の人よりも苦しい思いをさせていたんだ」と。

 そのように、練習を休んでしまった子の、「わたしも練習はしたかった」という思いをていねいに汲み取ることが、学級の実行委員としての自分のするべきことであったのです。であるのに、それをしようともせずに、自分で考えた特別練習をさせることしか頭にはなかったのでした。そのことを痛く思ったからでしょう。その後は、練習を休んだ子どもがいても、そのような人に温かく接します。そのひたむきな行為を見ることによってみんなは安心し、心を一つにして練習に取り組むことができました。

 ここに、自分を倒れないようにする力が出ているところを見ることができます。周りの人は、全て自分を支えようとしてくれていた人だったのです。そのことに気づくことで、周りの人に温かく接しようとする気持ちがわいてきます。そして、そのようにして、周りの人に接していくことによって、自分に寄せてくれる周りの人の温かさも感じ、また、それによって、自分のしていることに意義を感じていったことでしょう。それが、自分を倒れないようにする力となっているのだと思います。

 思い返せば、稲も、田んぼの中に、みんなが勢揃いして実っていました。みんなの中にいることの幸せを感じることが自分を謙虚にさせてくれる、そのことを知らせてくれているようでもありました。

 「謙虚」という言葉は、謙と虚から成っています。謙には「つつしむ」という意味があります。虚には「中身がない」と意味があります。このときの、中身がないとは、「からっぽ」ということではなく、自分色のついたものはない、虚の状態のものがある、という意味でしょう。自分の「人のためにこうしなければ」という思いを「虚」にしてみる。そうすると倒れることはなく、さらには、みんなと共に実ることができるのです。昔の人はいいました。「虚心坦懐」と。

 人は、成長とともに、社会の中で認められていきます。そして、認められると共に、それに見合う役割を求められます。そこには責任も伴います。だから、人は、その職務に忠実でありたいと思い、職責を果たそうとして一生けん命に努力を重ねます。ところが、その一生けん命になることに陥穽(落としあな)があるのです。人が人であるからでしょう。我欲にほんろうされ、自己に一生けん命であるが故に倒れてしまうのです。その状態を乗り越え、約束されているはずの「実る」という状態をつくりだしてくれるもの、それが「謙虚」でしょうか。そのように思えると、謙虚ということに、さわやかさを見出すことができます。

2009年10月26日

学校・家庭マネジメント道徳4>意欲と欲と


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 先日、帰省したとき、タクシーの車窓から、なつかしいものを見つけました。タクシーを止めてもらって、しばし、見とれました。

 子どものころは、稲の収穫後の田んぼにはこのような光景がありました。稲わらを牛馬の飼料や堆肥として活用するために、稲わらを保存していたのです。しかし、今では、牛馬にはトラクターが、堆肥には化学肥料が取って代わり、このような光景はあまり見られなくなっています。この稲わらは、たたみ、しめなわ、むしろ、民芸品、などの材料になるのでしょう。かろうじて、文化が続いています。

 現代の子どもがこのような稲わらの林立しているのを見ると、何とするでしょう。
公園でサッカーボールがあれば遊ぶでしょう、家でテレビゲームがあれば遊ぶでしょう。しかし、田んぼの中に、このような稲わらがあるだけでは、きっと何の関心も示さないでしょう。そのことを言うと、タクシーの運転手さんと話が進みました。

 かつての子どもたちは、このような稲わらを使って遊ぶことを考えました。狭い空間に多くの障害物があり、足元の土はやわくて機敏な動作ができません。これこそ、「おにごっこ」「かくれんぼ」「かんけり」の舞台として、最適なのでした。やわらかい土の上での、急発進、急停止、急旋回。それによって、先だってふれた、和式トイレでふんばることができる足腰もできあがります。

 また、稲わらを倒さないように気をつけるのですが、遊びに夢中になっていると、つい倒してしまうこともあります。直そうとしても、うまくいかずに、後で叱られることもありました。しかし、叱られて、だから止める、のではなく、今度は、気をつけようと思うのでした。そして、稲わらを倒したらオニを続ける、というルールをつくったりもしていました。遊びに、「意欲」が出ています。

 現代は、物が豊かになり、子どもの遊び道具も様々に開発され、遊ぶ環境も整備されています。子どもたちはサッカーやテレビゲームなどで、夢中になって遊んでいます。しかし、子どもの発する言葉を聞いていると、勝ち負けにこだわったり、相手を非難したりする、感情的な言葉が多いのです。そこでは、遊びは自分の「欲」で覆われています。

「意欲」と「欲」。似ているようで違うようです。欲は本能にそって自己の欲するところを求めることです。また、意は心ですから、意欲とは心を働かせて自己の欲するところ求めることでしょう。で、遊び道具がお膳立てされると、意欲の出る番はなくなり、遊びは欲に左右されるということになるのでしょう。

 学校教育で総合的学習の時間が始まったのも、いわば、この「意欲」の価値を子どもたちに感じ取らせるためでした。ある時、ダンボールを前にして、考え込む子どもたちがいました。そして、運動場にころがっていたボールを展示する台を作りたい、ゴミ箱を作りたい、的当てゲームを作りたい、鉛筆立てを作りたい、筆箱を作りたい、本立てを作りたい...これらの意欲が、楽しい作品を生み出しました。

 かつては、子どもたちが日常的な遊びの中で感じていた意欲も、学校や家庭で、それを感じる機会を作り出すことが必要になっています。

2009年10月19日

学校・家庭マネジメント道徳3>木に育てられる心


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 一個の柿が、わたしの心を締め付けます。せつなく、くるおしく。

 先週の週末、実家に帰省して稲刈りを手伝いました。そして、日曜日、東京に帰るとき、父が、「はい、家の柿。今年の初物よ。」と言って手渡してくれたのです。

 実家では、共に80歳を超えた父と母が農業を営んでいます。父は今年の夏、手術をしました。今までは稲刈りの手伝いに帰省することは無かったのですが、今年は心配になり、帰省しました。お天気にも恵まれ、稲刈りは無事終わり、家を出る間際、父が柿を手渡してくれたのでした。

父から柿をもらう...、50年ほど前、そう、そういうわたしがいました。稲刈り作業の手伝いをしていた子どものわたしに、きれいに皮をむいて食べさせてくれていました。この柿の木は「富有柿」。父のおじいさんが家の周囲にたくさん植えたと聞いています。それ以来、世代を超えて、この柿の木になる柿の実は、その時々の家族に、心の通い合う場を提供して来ていたのでした。それを思い、そしてまた、家を出ていくわたしに、柿の実を枝から折って来て、枝つきのまま差し出してくれた年老いた父の心情を思うと、こちらの目にも涙がにじみます。

そういえば、子どものころ、近所の家々には、その家を特徴づける木がありました。
「なつめの木」のある家、「ゆずの木」がある家、根っ子からニッケイ(カプチーノコーヒーをまぜる棒に似ている)がとれる「肉桂(にっけい)の木」がある家、「金柑の木」がある家、「いくり(すもも)」の木がある家、そして、当時、わたしの家には、柿の木がたくさんありました。

今思うと、それぞれの家では、その木を通して家族の語らいがあったのではないかということに気づきます。収穫があり、だんらんがあり、木の世話をする日常があり、木の下で憩うときがあり、台風への援護があり...と、そのような何気ない日々が、家族のまとまりをつくっていたのでしょう。木は、数十年の長きにわたり、自らの雄姿を披露してくれます。それが世代を超えて、そこに集う者たちの心をまとめていくことに効果があったのではないかと思われます。

また、ある小学校では、校門の近くにある神社に大きな杉の木があるところから、その大杉のようにたくましく育つように、「大杉集会」という異学年の子どもが集まる集団をつくって、いろいろな活動に取り組んでいました。集会の冠に「大杉」があるので、自然と大杉のことに関心が行きます。ある子どもが、次のように話していました。
「毎朝、学校に着くと、大杉が今日もがんばれと言ってくれているように思います。」
 大杉の生きている姿が、一人ひとりの心に、よい道標を投げかけていました。

 家庭は幾世代もの人が世代をつなぐことで成り立っています。学校は同世代の子どもたちが集まることで成り立っています。その家庭や学校で、その社会を構成する人たちの心をまとめていくものを得ることの大切さを、改めて思ったのでした。

 さて、父からもらった、一個の柿の今後ですが、どうしてもすぐに食べる気持ちにはなれません。しばらく、ながめて、故郷の余韻に浸りたいのです。また、自分だけで食べてはいけないような気もします。そこで、今度の日曜日、この柿一個でジャムを作ろうと思いました。そして、家族で分けて食することにします。ジャムのいわれを話しながら。

2009年10月15日

学校・家庭マネジメント道徳2>生きる力


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何と、台風の後にアサガオが花を咲かせました。台風18号が大風を吹かせたのは10月8日でした。その三日後、10月11日のことです。

このアサガオ、ツルはほとんど枯れ、見るにしのびなくなったので取り払おうと思っていた矢先に台風が来たのです。台風に痛めつけられ、それに「耐えた」ことが、かえって自分を取り戻すことになったのでしょう。花びらの大きさは往時の三分の一くらいの大きさで、小さなアサガオでしたが、どことなく、気品を漂わせているようにも感じました。「耐える」ことはつらいことです。しかし、それによって、自身に磨きをかけていくことができます。それが、「生き物」の証であって、生き物にある「生きる力」を見た思いがしたのでした。

さて、このことを、どう思うかです。人間も生き物です。だから、生き物としての耐える力・生きる力があってこそ、厳しい自然界の中で数百万年という年月を重ね、人という種(しゅ)を今に伝えることができています。

 かつて、艱難(かんなん)という言葉が使われ、「艱難(かんなん)汝(なんじ)を玉(たま)にす」という言い方が、人の生きる道筋を照らしたこともありました。人々は、その価値を、ことわざや名言として残し、伝えてきました。
 ・臥薪嘗胆(がしんしょうたん)
 ・雨垂れ石を穿つ(あまだれ いしをうがつ)
 ・成らぬ堪忍するが堪忍(ならぬかんにん するがかんにん)
 ・思う念力岩をも通す(おもうねんりき いわをも とおす)
 ・石の上にも三年(いしのうえにも さんねん)
 ・縁の下の力持ち(えんのしたの ちからもち)
 多くの人々が、これらの言葉を鏡にして自己を映し出し、なるほど・そうだ・もっと精進せねばと、自分に喝を入れ、前に進んできたことでしょう。

 人にも、「生きる力」はあったのです。しかし、小学校学習指導要領に、いいます。「学校の教育活動を進めるに当たっては、各学校において、児童に生きる力をはぐくむことを目ざし、...」「その際、児童の発達の段階を考慮して、児童の言語活動を充実するとともに、家庭との連携をはかりながら、児童の学習習慣が確立するよう配慮しなければならない。」...「学校の教育活動」「家庭との連携」で「生きる力」をはぐくむことが求められています。ということは、現代の子どもには「生きる力」が乏しい、ということです。
 
 現代は、文明によって作られた製品が人に楽(らく)な生活を提供し、さらには、もっと楽になる製品をつぎつぎと打ち出してくれる世の中です。それは、見方を変えると、文明が、人の「耐える力」をむしばむことになっているともいえるでしょう。人は、楽になることには弱いです。そちらの方になびきます。しかし、楽ということにかまけていると、気力や体力は萎(な)えてしまう、というのが「物の道理」です。

 今日のテレビの番組で、ある保育園のようすを紹介していました。その保育園では園児が、屋外で、金槌や釘をつかって、しゃがんで板切れの工作をしているのです。屋外ですから、椅子に座ることも、寝そべることも、地べたに座り込むこともできません。園児は、工作のおもしろさに夢中になりながら、知らず知らずのうちに、しゃがみこみます。また、重たい板切れや金槌を使うことで、足を踏ん張ることになります。遊びながら、足腰をきたえているのです。

 足腰が弱いとどうなるか...。
 現在、小学校のトイレは和式のトイレが多いです。ところが、家庭では、体に負担をかけない洋式トイレが普及しています。そのまま小学校に入学すると、和式のトイレにすわって用を足そうと思っても、足腰がふらついて用を足すことができず、トイレに行くのをがまんする子どもが多いとか。それで、子どもが気軽に和式トイレにも行けるように、足腰をきたえているとのことでした。洋式トイレもよいですが、和式トイレにもよさがあります。学校のトイレ設備を洋式に交換ということで問題の解決をはかるのではなく、足腰をきたえればどちらにも対応できる身体能力を身に付ることができます。

 考えさせられました。そう、そのように、どのようなトイレにも平気で行けることが、他の行動力をも大にすることでしょう。自信につながります。身近なところで、子どもの生きる力がそがれ、それを、克服していくことが求められているのだと思いました。