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2006年2月 アーカイブ

2006年2月14日

日本家庭教育学会大分支部研究会

2月11日、大分県別府市で、日本家庭教育学会大分支部研究会が開かれました。八洲学園大学から学長の高橋先生、中田先生、厳先生と、わたしの4名が参加しました。家庭教育力を育てる家庭教育・道徳教育の在り方がテーマでした。日本家庭教育学会の大分支部には、永年にわたって大分県の道徳教育を推進してきた人たちが参集しています。この日も、教育界で活躍している人、さらには現役を引退して地域で活躍している人たちが30名ほど集まってくださいました。

まずは、この結束力に頭が下がりました。近年の家庭教育を批判する人はたくさんいます。しかし、多くの人と手を携え、自分たちで前に進もうとするとする人たちはなかなかいません。この日は、その人たちに久々にお会いできて、とてもうれしかったです。
 
学長からは、子どもの教育を学校だけに任せてすむ時代ではなくなり、家庭や地域で子どもの教育にかかわらねばならなくなったこと、そこに、八洲学園大学が家庭教育にかかわる人材を育成する大学として誕生したことが話されました。

従来、学校で子どもにおこなう教育の方法を教える大学はあっても、家庭や地域で子どもにおこなう教育を教える大学はなかったのです。

八洲学園大学では家庭教育アドバイザーを育成するためのカリキュラムが組まれています。そのカリキュラムで「家庭教育学」を修めると、学会が家庭教育師として認定することになりました。

「家庭教育学」とは、今までにないジャンルです。それを、どのようにして修得するかが話題となりました。それで、3人が受け持っている授業科目の実例をあげながら、学生が家庭教育学を修得していく過程を説明しました。

まず、わたしは家庭にいる人に、学校教育のねらいや小中学校の先生方の教育姿勢を解説することで学校の先生への理解が進み、それが家庭の教育力になることを話しました。

中田先生は家庭にいる人に文学の味わい方を解説することで、家庭の中に豊かな教養が満ち、それが家庭の教育力になることを話しました。

厳先生は有史以来人々が積み上げてきた東洋思想の源流を家庭にいる人に解説することで、家庭にいる人に何を善しとするのかの価値判断の基準が備わるようになり、それが家庭の教育力になることを話しました。

教員はそれぞれの専門分野から発信します。学生はそれらを受信して集大成していくことで、家庭教育アドバイザーとしての資質を磨いていくのです。さらには、学会認定の家庭教育師として社会で活躍できていくことでしょう。

教育は、教育にかかわろうとする人の自覚から始まります。この研究会も、会員の熱心な意見が交わされました。家庭教育師への理解も深めていただきました。そして、家庭教育師として活動したいという心強いご意見もいただきました。

学会の家庭教育師資格細則には、大学で家庭教育学を修めた人の他、教員として30年以上勤めた人にはその専門性に鑑み10単位の履修で申請できるという恩典や、永年、家庭教育の向上に携わって社会貢献をしてきた人、永年、日本家庭教育学会の活動を熱心におこなってきた人にはその実績をもって申請する資格があると明記されています。

多くの人が家庭教育師へ手を上げていただけそうでした。近いうちに、それをかたちにしていく一歩を踏み出すことになります。ありがとうございました。

2006年2月19日

岡城跡

「虎は死して皮を残し、人は死して名を残す」といいます。しかし、名前を残すのは特別の立志伝の栄誉に浴した人たちだけでしょうか。

大分県竹田市に国指定史跡の岡城跡があります。2月11日に、大分県別府市で行われた日本家庭教育学会研究会の翌日、その岡城跡を訪ねました。私の通った高校はその城跡のすぐ下にありました。それでよくその城跡に行ったものです。40年前のその当時、城跡は石垣のみでした。現在も石垣のみの城跡でした。しかし、その石組みの見事さに圧倒されてしまったのでした。
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(撮影は、同行していただいた、元別府大学教授:渡邉忠美先生です。)

空中楼閣という建造物は存在しないでしょう。でも、その印象を抱かせる見事な石垣の美でした。山頂に、延々と続く石垣。かつて自然崩壊をしたり、土砂に埋まったり、ゆがんでしまったりしていた石垣をいったん取り壊し、それを当時の姿そのままに復元していたのです。40年前とは、実に様変わりの観でした。人は、何という偉大なことをやってのけるのであろうか。断崖の上に石を積み、平地をつくる。そして、そこを居住空間とする。眼下には川が流れ、はるか遠方には、久住山、阿蘇山、祖母山、傾山という、九州中央部の主な山々がパノラマのごとく展開する絶好のロケーション。この復元された石垣の上に立つと、往時の人々の思いがしのばれました。

岡城跡は岡城という城の跡です。岡城の歴史は古く、太平記にそれを知る手がかりがあります。鎌倉幕府を開く源頼朝と仲たがいをした源義経を九州のこの地に迎えるという壮大な計画があったのです。この地の近くにいた緒方三郎惟栄(おがたさぶろうこれよし)という武将が、この城を築城し、義経を京都に迎えに行きました。ところが、兵庫の大物浦を出航した舟は嵐に見舞われ難破。惟栄は捕らえられ上野国(群馬県)沼田荘に流され、義経一行は陸路をとり北陸から平泉をめざすことになりました。歴史は、非情な側面をあわせ持つものです。

その後、この城は、幾多の変遷を経て中川秀成が播磨国三木城(兵庫県)から入ることになります。秀吉の命によるものでした。その中川秀成によって現在の城の形ができあがり、城は江戸時代を貫きました。明治になって建物は取り壊されて競売に付されましたが、石垣は残りました。秀成の思いが、この空中楼閣となって表現され、今に残るのです。一体、この城の形を成す根源とはどのようなものであったのでしょうか。

この城を築城した中川秀成の父は中川清秀。その中川清秀は織田信長に仕えた武将です。本能寺の変で織田信長が明智光秀に倒されると、秀吉とともに山崎の戦いで光秀を討ちました。

中川清秀は、翌年の秀吉と柴田勝家が戦った賤ヶ岳の戦いで秀吉に属して布陣をしていましたが、その陣が賤ヶ岳の一隅の突出しているところにあったため、勝家の武将佐久間の軍勢に襲われることになりました。秀吉の本隊は数十キロ離れた大垣にいたので、その隙をつかれる形となったのです。清秀は苦戦ののち戦死しました。しかし、それが秀吉の好機を呼んだのです。佐久間の軍勢が勝利の歓喜に浸る夜中に、あろうことか秀吉の本隊が大垣から松明を片手に押し寄せたのでした。秀吉はどうも、こうなることを読んでいたようです。あらかじめ、沿道に松明や食料を準備させていたというのですから。結果、佐久間の軍勢は大慌てで退却せざるを得なくなります。それを見た、勝家の与力大名、前田利家も退却。そして、それを見た勝家本隊の将兵の多くも浮き足だって散り散りに。勝家は戦わずして敗軍の将となったのでした。その後、越前・北ノ庄に帰って、お市の方と共に城にたてこもった勝家を取り囲んだのは前田利家。利家が主君にあたる勝家を討つという悲劇で、この戦いは幕を閉じました。

岡城を築城した中川秀成の父、中川清秀は、いわば捨て駒として秀吉の天下取りに貢献したのでした。清秀には秀政という嫡男がいました。秀成の兄です。秀政は、父の死後、跡を継いで秀吉に仕えましたが、秀吉の命で朝鮮半島に攻め入った文禄の役のとき戦死してしまいました。それで、弟の秀成がその跡を継ぐことになったのです。

秀成は秀吉からこの地を拝領し、7万石を領することになりました。その時の思いはいかがだったでしょうか。喜びばかりとはいかなかったでしょう。京や大阪から遠く離れた異郷の地に赴任すること、父や兄が死をもって秀吉に貢献してきたこと、父を討った側の前田利家は、戦わずして秀吉の前から退却したことが評価を受け、自分よりはるか高禄で京の近くの加賀に領地を拝領していること等々の思いが、彼の胸中に去来したことは想像するに難くありません。孤高の武将となっていたことでありましょう。後の関が原の戦いの時には、徳川家康の東軍に加わりました。そして、関が原とは遠く離れた九州の地で西軍の臼杵城を攻撃して武勲を立てています。

築城にあたっては、それら、戦死をして家を守った親兄弟への思い、ままならない国家権力構造へのやるせない思い、そして、自分の存在価値を求める思い等々を込めていたような気がします。

そして、そこに、峻険な崖の上に石垣を積む工事をした人々の思いが加わっていきます。きっと、多くの犠牲者も出たことでしょう。しかし、人々は、藩主の秀成と同様に、この城をつくりあげることに誇りを見出していたのではないでしょうか。山上にこれだけの石をめぐらし、平地を築き、城郭を建てる。それにくみすることは、自分のよりよい生き方を発見することでもあったのだろうと思います。だから、成しとげることができたのでしょう。

明治になって、藩主だった中川氏は東京へ。荒廃した建物は競売にて取り壊され、石垣のみが風雨にさらされることになりました。その城跡に登ってよく遊んだとされるのが、瀧廉太郎です。廉太郎は幼少の頃、この城跡のふもとの竹田で過ごしました。後、土井晩翠の作詞「荒城の月」を作曲するにあたり、この岡城跡のことを思い出して作曲したといわれています。明治以来、学校教育の場で歌われ続けたそのメロディーは、哀切を感じさせ、日本人がもっていた穏やかさを形に表してくれています。

土井晩翠が「荒城の月」を作詞したモチーフになったのは、仙台の青葉城や会津若松の鶴ヶ城といわれています。すると、これは、今流行のコラボレーションということではないでしょうか。岡城に築城の秘話があったように、仙台の青葉城や会津若松の鶴ヶ城にも、それぞれの築城に際しての秘話があり、それを支えた人々がいたはずです。数百年後、その人々の思いが大同団結して、名曲「荒城の月」となり、人々の心に安らぎの地をつくりだしているのです。それは人々の心が石垣を組むに似て、かかわり合い、一つの形を成しているということでしょうか...。

死して名を残す人はまれです。しかし、名を残せなかった人々も、何かを残しています。そして、後世の人々がそれをくみ取ろうとするとき、歴史は不思議な価値をもって迫ってくる...。そのように思った、岡城跡紀行でした。 平成18年2月12日のことでした。

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