学校・家庭マネジメント道徳>つらさを生きる

ケイトウを見ていたら、何と蚊がやって来て、蜜を吸いました。そんなばかな...。ありえる話かな...。
蚊は、人の血を吸うのではなかったの?蚊を見かけると、「血を吸われる」、「叩きつぶさなければ」と、とっさに思います。特に、秋の蚊は身のまわりに寄ってきて、なかなか離れません。こちらの隙をうかがっています。冬越しを前に蚊も必死だなと、思っていたのでした。
気になって調べてみると、ふだん、蚊はオス・メスとも花の蜜・果物の汁・樹液などを吸い、メスのみが、産卵の前に血を吸うとのこと。では、わたしに見向きもしないでケイトウにとまっていたのは、オスの蚊か、産卵前ではないメスの蚊ということになります。いずれにせよ、この、写真に写した蚊は、おだやかに、自分の生き方を生きていたのでした。蚊さん、誤解していましたよ。申し訳ない。
どうも、わたしたちは、見方が一面的になるところがあります。蚊は血を吸う、蚊は病原菌を運んでくる、という知識を得ると、蚊を悪いものとしてしか見なくなってしまいます。思えば、ケイトウの、細くとがっている花の中にある蜜を吸うには、蚊のように先の長くなっている口が必要です。そう、蚊は、必要とされているのです。ケイトウの花にとっては、その口先に花粉を付けて他の花と受粉をしてもらえるので、願ってもないほどのありがたいことなのでした。蚊はケイトウの花を生かして、生きていたのです。蚊とケイトウの花とは、助け合っています。
今まで、蚊に対して、何という邪悪な存在なのかという思いが先行していました。生き物の血を吸って生きることから、さげすんだ見方もしていました。しかし、反省です。この日見た蚊は、優雅に生きていました。蚊は、蚊として生まれ、もって生まれた自分の生き方を生きようとしていたのです。(人の血を吸いに来たときは、人も、人としての生き方をかけての真剣勝負、とまいりましょう。)
人も、人として生まれ、子どものときから、家族の間や、学校のみんなの間の中で、人として生きていく術を身につけて行きます。しかし、人は心をもつ存在であるが故に、かえって複雑なことにもなります。相手のことが気に入らないと、ひやかしをし、いじめをし、暴言を吐き、...。人は人といることがうれしく、人に喜び与えることで自分にも喜びが生まれ、人と共に生きることの中に自分の生き方を見出せるはずなのに、逆に、人を傷つけ、己の気分を相手にぶつける、ということがあるのです。
なかでも、最近起きた、小学生殺人未遂事件のことを思うとき、心のざわめきは続きます。小学生に暴行し、海に落としたとして逮捕されたのは、15歳の少年と中学生。また、その少年たちにそそのかされる形で、被害者と同じ小学校の子どもも暴行に加わっていたとのこと。教育担当者は、「あってはならない事件。各校の道徳教育のあり方を見直し、家庭と連携していきたい」と語っていました。また、報道関係者は、「警察の捜査とは別に、地域や学校、それに家庭の役割を、もう一度、見つめ直すことも忘れてはなりません。」と、訴えていました。関係者の心痛がよく伝わってきます。何とか、荒んでいる子どもの心を救いたいのです。
重大事件が起きるたびに、識者から、上記のような「学校の道徳教育のあり方を見直し、家庭と連携する」「地域や学校、それに家庭の役割を、見つめ直す」という方向性が発せられます。が、今までの事からして、その思いが、それを必要とする子どもの心に届くには、はるかな道のりがあります。果たして、どのようなことを、学校の中に、そして、家庭の中に、押し広げていけばよいのでしょうか。
報道を見ると、逮捕された少年は、小学生のころ、なぐられたり、くつをかくされたり、教科書をかくされたりと、数々のいじめにあっていたとのことでした。これにも、心が痛みます。つらい小学生の時代を生きています。そのつらさをもって、くじけないで生きていくためには、道徳として、どのような見方を授ければよかったのでしょう。
星野富弘氏の書いた詩の中に、次の言葉があったのを記憶しています。
「喜びが集まったよりも 悲しみが集まった方が しあわせに近いような気がする。」
人は、だれしも、しあわせを求めます。しあわせは、喜びを感じることでしあわせになります。しかし、喜びの反対の、悲しみの中にしあわせへの近道があるというのです。軽々にうなずくことはできませんが、含蓄のある言葉であることはわかります。そして、しばらくこの言葉を見ていると、心をそのように整理してみたいという気もしてきます。それは、そこに、つらい中から明るさを見出していく生き方への入り口があるからでしょう。
つらいことに出会っても、嘆いて自分をいじめるのではなく、人に卑屈になるのでもなく、自分の生き方を自分なりに展開していくことに自信をもつことができれば、自分の生き方を見出して、しあわせに近づくのではないでしょうか。そこに、自立があります。
学校も、家庭も、組織体であり、運動体であり、社会を形成しています。しかも、子どもを、核にして構成された社会です。子どもが、悲しみを抱いても、学校や家庭で心の落ち着く場所を得ることができれば、みんなと共に楽しい社会をつくりだそうとする心をもつことでしょう。そのことによって、その社会は社会としての目的や機能を果たすことになります。そのように、子どもが学校や家庭という社会をつくりあげようとするためのいろいろなことを、改めて整理してみたいと思いました。次回から、シリーズ「学校・家庭マネジメント道徳」として、書いて行きます。
今回、蚊の優雅な姿を見たことから、思わぬ展開となりました。これも、時期の到来かも知れません。

