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2005年5月23日

怒ると叱る

怒ると叱るという言葉は同じような意味をもって聞こえます。しかし、それを受ける側で、「叱られた」と言う時と、「怒られた」と言う時とでは、若干の意味合いが違います。子どもに意見をして、子どもが「叱られた」と言っている時には安心しますが、子どもが「怒られた」と言っている時には、真意は伝わらなかったなと、後悔していました。先日も、あるお母さんから子どもを叱った時、「今、怒っているでしょう。怒ると叱るは違うよ。」と言われてしまったという話を聞きました。なかなか、難しいところです。
テレビでは「ごくせん」という番組が人気だったとか。悪いことは悪いこととしてきちんと言い放つ教師の姿がいいのでしょう。わたしは、口ぎたなくののしる彼女の姿には閉口してしまうのですが...。かっこよさにひかれるのもまた確かです。
しかし、実際問題としては、歴史を振り返ってみても、諫言が吉となったことはあまりありません。人から意見をされると、それが正しいとは思いつつも、うらみ・ねたみ・ひがみなどを感じてしまいやすいのも、人間なのですから困ってしまいます。人からの意見は、感情のしこりを、残さずに、さらりと受けたい。このような子どもの思いが、先ほどのお母さんへの言葉となったのでしょう。

昨日(22日)、関越道・上信越道を車で走りました。東京・長野間往復です。その時、ラジオでタレントの藤村俊二が、自分の人生の転機となったことについて話していました。大変な不始末をしてしまってお父さんに謝らなければならないけれどどうしても謝れないでいた時、お母さんが別室に藤村さんを呼んで言ったというのです。昔、こんな「どどいつ」があったよ。人の意見を 聞くときにゃ 頭を下げて 聞きなされ。そうしてみりゃあ 人の意見は 頭の上を すぎてゆく。これを聞き、意を決してお父さんの前に頭をたれた藤村さんは、かえってお父さんにほめられたとか。藤村さんは、それがきっかけで立ち直ることができたそうです。頭を下げるという藤村さんの行為が、叱ろうとするお父さんの感情をぐっと抑え、怒りではなく、かえって藤村さんのこれからを気遣う心となったのでしょう。それが、また、藤村さんの心をとらえて、改心の情となっていったのだと思います。みごとですね。お母さんが、そのきっかけを、さらりと作ったのもすばらしいことだと思いました。

人に意見を言いたい時にも、相手の向上しようとする心をとらえるアンテナを持つことができれば...、是非、そうありたいと思いました。

2005年5月25日

思い込み

ホームセンターで、「ふるい砂」と書いた砂の袋を買ってきました。趣味の日曜何とかで花壇を作るのに、モルタルでブロックを積み上げるためでした。モルタルは、セメントと砂と水を混ぜてつくるという知識は、子どものころ、近所の工事現場を見て知っていました。ホームセンターでは、セメントはすぐに見つかりました。しかし、砂がないのです。そんなばかなと思いつつ、探しまわるのですが、あるのは「ふるい砂」と書いた袋入りの砂だけです。どうして、新しい砂はないのか。悩んだあげく、あることを思い出しました。海の砂は塩分があるので、モルタルにすると鉄筋をさびつかせてしまってもろくなる。川の砂を使うのがいいのだけれど、川の砂は採取を禁止されているところが多い。それで、海の砂を採取して塩分を洗い流して使うのだと。いつ聞いたかは忘れましたが、子どもの時、工事をしているおじさんから聞いたのかもしれません。その時、思いました。そうか、だから、「古い砂」なのか。海で採取した砂を水につけて、古くすることで、海の砂は塩分が抜けて「いい砂」になる。だから、「ふるい砂」だと。そして、セメントと「ふるい砂」を買って帰ったのでした。花壇はできました。ブロック70個ぐらいを積み重ねる、力作です。後には、使い残りの「ふるい砂」が残りました。
 それからは、その袋を何度も目にすることになりました。どうも、心が落ち着かないとは、このようなことをいうのでしょう。「ふるい砂」を、どうして漢字を使って、「古い砂」と堂々と書かないのだろうか。それでは、商品価値が下がってしまうのだろうか。そういえば、知っている小学校で越智小学校というのがある。海岸の「落の浦」という集落にあるのだけれど、そこに小学校が建てられた時、名前は「落小学校」とはしないで、「越智小学校」としたという。そんなことも思い出して、これも人間の成せる技なるかなとも思い直したのでした。でも、落ち着きませんでした。
 ある時のことです。その袋の「ふるい砂」という大きな字が気になりました。「ふるい」を何と大きく堂々と書いてあるのだろう。そんなに、古いのを隠したいのか。そこまで、考えたとき、ふっと、戦りつにも似た電気が走りました。待てよ。あの、子どものころに見た、工事をしていたおじさんたちは、砂を、「ふるい」にかけていたぞ。そして、「ふるい」に残った小石を捨てていた。「ふるい」の下には、細かい質のよい砂が山盛りになっていた。そうか、「ふるい砂」の「ふるい」は、「ふるい」にかけた砂ということか。ガ〜ン。
 子どもの目は、断片的。一つひとつは、よく見て、正しく理解しているつもり。大人になると、それを整理できる機会がやってくるのですね。

 高校の時です。私は、クラスで笑い者になりました。「エツ、源頼朝が流されたのは伊豆諸島ではないの!」この私の叫び声に、みんなは、唖然。そして、次の瞬間。クラスは大爆笑に包まれました。
「だって、源頼朝は、幼い時、伊豆の蛭が小島に流されたのでしょう。伊豆の島と言えば、伊豆諸島でしょう。伊豆の大島の近くに、蛭が小島もあるのではなかったの?」
 私の訴えも、ますます、みんなの笑いを大きくするだけでした。歴史地図を見ると、確かに蛭が小島は伊豆半島の内陸にあります。「そんなあ。」私の住んでいたのは九州。伊豆の蛭が小島は、伊豆の小島であり、伊豆には七つの大きな島があるから、そのそばに小島があると、独り合点をしていたのでした。
 その疑問が解けたのは、それから、25年ぐらいが経過して、実際に、伊豆の蛭が小島を訪れた時でした。そこは、伊豆半島の真ん中の田んぼの中でした。でも、かっては大きな川が流れていて、その川の中州に島ができていたということを案内板で読んだのでした。ガ〜ン。
 子どもの時は、純粋にものを見る力を持っています。それは、いいのですが...。それが、思わぬ展開になることもあります。ま、それも、人生かな。人が生きることの証なのかもしれません。

2005年5月27日

トラワヨ

 ここ、十数年来の疑問が解けました。
 ずっと、ずっと、前のことです。「釜山港に帰れ」という歌がヒットしたことがあります。今の韓流ブーム以前のことです。確か、渥美二郎でした。曲の出だしの、地響きがするようなメロディとともに、「椿咲く春なのに〜」で始まる野太い声、それに、途中に挿入される「トラワヨ プサンハンヘ」という韓国語と思われるエキゾチックな歌詞の調子のよい響きに、心がひかれました。「でも、『トラワヨ プサンハンヘ』とはどんな意味だろうな」と、ずっと気にかかっていました。
 時は、めぐりめぐって、八洲学園大学に来ました。去年(平成16年度)のことです。大学の先生の中に、韓国からお出でになった先生がいました。厳(オム)先生です。そして、昨年の秋学期から韓国語講座を、公開講座として始めました。私も弟子入りしました。
 今日、5月27日の講座の中で、「親しみのある丁寧な言い方」がありました。動詞や形容詞の語幹に 아요(アヨ) や 어요(オヨ) を付けて、「〜ます・です」という親しい言い方を表すものでした。その例示に、오다(オダ) がありました。「来る」という意味の言葉です。오다 を「来ます」という意味にする時には、語尾の다を取って語幹の오に 아요 を付けるのですが、それが오아요(オアヨ) とはならずに、途中を省略して、와요(ワヨ) となるというのです。その時です、「ワヨ」って、どこかで記憶があるな、と思いました。この頃は年のせいか、よく記憶があやしくなるのです。その時はそのままでした。
 そして、お昼を食べていた時のことです。待てよ、「ワヨ」って、「トラワヨ プサンハンヘ」の中の、「ワヨ」ではないかいな。そう思って、インターネットを駆使し、「釜山港に帰れ」の歌詞を見つけて確かめようとしました。韓国語の歌詞はなかなか出てきません。でも、あるサイトでやっと見つけました。そこには、 돌아와요 부산항에 と書かれていました。これが、「トラワヨ プサンハンヘ」 にあたる部分です。後の方の、부산(プサン)は「釜山」のこと、항(ハン)は「港」のこと、에(エ)は「〜に」のこと、ですから、「プサンハンヘ」とは、「釜山港に」ということになります。そうすると、 돌아와요(トラワヨ) の、와요(ワヨ)の部分が「来ます」であることは、間違いないようです。でも、돌아(トラ)の部分が何だかわかりません。これは、お手上げです。そこで、厳(オム)先生の部屋をノックしました。
 先生曰く、돌아오다(トラオダ) という「帰って来る」という意味の、基本形の言葉があって、その語尾がかわり、돌아와요(トラワヨ)となったものであるとのこと。돌아오다(トラオダ)は一つの単語でした。
 これで、わかりました。「トラワヨ プサンハンヘ」とは、「帰って来ます。釜山港に。」だったのです。ただ、歌詞ですから、詩としての意訳があって、歌詞全体の流れからいうと「帰って来てください。釜山港に」になるのかなという感じがします。それとも、別れていった人が、別れの間際に「帰って来ます。釜山港に。」と言ったので、それを思い出しているのかなとも思います。

これで、十数年、知らずに使っていた言葉の意味を知ることができました。
 人は、知っていても、更に深く知ろうとはしないことの方が多いでしょう。わからなくても、わかる必要がないからです。でも、何かのきっかけでそれを知りたいと思うと、調べようとする力や、知り得た後の満足が出てきます。
 知りたいと思える状況に、自分をどのように置くか、それがこれからの課題だと思いました。 小さな夢ですが、いつか、この歌の全てを韓国語で口ずさめるようになりたい。

2005年7月 1日

早期教育

梅雨空になりました。いつもは、横浜駅から大学までは歩きますが、雨の日は地下鉄のお世話になることが多いです。今日も、そうでした。私の後に、二人の子どもを連れたお母さんが乗ってきました。一人は5歳くらい。もう一人は3歳くらい。いずれも男の子です。

お母さんはシートにすわると、両脇に子どもをすわらせました。そして、バッグから小さな絵本を取り出すと、パラパラと絵本を開けて、「これ、何て読むの?」と左右の子どもに聞きました。見ると、ひらがなのおけいこの本でした。ページごとに、ひらがなの文字が一つずつ大きく書かれていて、そのひらがなをつかった言葉の物が絵でかかれています。どうやら、ひらがなのお勉強を始めたようでした。しかし、二人の子どもたちは、電車の中にいる人たちを、興味深そうに順々に見回しているだけでした。そのうち、お母さんが何度も呼びかけるので、弟はお母さんに向かって受け答えを始めました。そして「これ、...だよね。」と、絵本を指差してはお母さんに聞き返しています。弟は「お母さんの心をつかむのがうまいな」と思いました。お母さんの相手をしてあげているという雰囲気でした。

お母さんは、電車に乗っている時間を子どもの勉強時間に変えました。何かの心配か、考えがあって、機会をとらえてはひらがなを覚えさせようと、絵本に向かわせているのでしょう。世に、早期教育といわれているものです。しかし、子どもは、どうも食傷気味のようでした。逆効果にならなければいいけどな...、絵本には夢がつまっているはずなのに...、絵本がつまらなくなるよ...と、ついよけいな心配をしてしまいました。

「子どもは、育てたように育つ」と、言われます。しかし、子どもには、子ども自身の発達段階があり、それを無視すると、途中で意欲は頓挫し、反発ばかりが増幅されることになります。

お昼を食べるときにでも、「あれが地下鉄よ。もぐらさんみたいに、地面の中を走ったのよ。頭の上に町があったのよ。」と、地中を走ることができた不思議さを話題に出した方が楽しい雰囲気がつくれるのでは...。電車は、ましてや地下鉄は、子どもにとっては不思議体験ゾーンです。じっとだまって乗っているだけでも、楽しいはずだと思うのですが...。

2005年11月 3日

花さかじいさん

花さかじいさんは、昔話によく登場する『お話』です。先日、学生さんの、「昔話や童話に道徳を見出す」というレポートの添削をしていてこの話のことが気になりました。この学生さんは、『花さかじいさん』を改めて読んで、その中で見出した道徳を詳しく述べていました。そして、本の中では、おじいさんに、「正直な」という形容詞がついていないことに着目していました。鋭い指摘です。幼い頃の記憶をたどると、幼稚園や小学校低学年では、劇をして、歌を歌っていましたが、その歌は次のようになっていました。

花咲爺   作詞 石原和三郎  作曲 田村 虎蔵

一、 うらのはたけで、ポチがなく、
     しょうじきじいさん、ほったれば、
     おおばん、こばんが、ザクザクザクザク。
   二、
     いじわるじいさん、ポチかりて、
     うらのはたけを、ほったれば、
     かわらや、せとかけ ガラガラガラガラ。
明治34年(1901年)6月23日 『幼年唱歌 初編 下巻』

花さかじいさんといえば、私の頭の中にも正直じいさん・いじわるじいさんという図式があります。しかし、考えてみると、ストーリーの中にはおじいさんが正直だとわかるできごとがないのです。『金の斧・銀の斧』というお話でしたら、金の斧を差し出されたときに、「それは違います。私の斧は鉄の斧です」と、ウソをつかないくだりがありますので、正直ということがはっきりとわかります。でも、花さかじいさんのお話には、そのようなことはありません。

さて、おじいさんは、正直なのでしょうか。俗によく知られている、ウソをつかないことが正直という説明では、おじいさんは説明しにくいものがあります。だから、その本にも、「正直なおじいさん」という言い方はしていないのだろうと、かってに解釈をしてしまいました。

さてさて、ここからです。では、おじいさんは、正直ではないのでしょうか。いや、いや、いささか乱暴ですが、「しょうじきじいさん、ほったれば...」と、唱歌として明治時代から学校で歌い継がれてきたから、正直なのだとしましょう。そして、ここからが道徳の学習になります。このおじいさんを敢えて正直だとすると、おじいさんの行為のどこに、正直さが現れているのでしょうか。ウソをつかないことの他にも、正直さを示す行為があるのかもしれません。いや、それどころか、ウソをつかないということは、正直さを示す行為ではなくて、単なる結果を見せているだけかもしれません。

さてさてさて、おじいさんの行為を見てみましょう。おじいさんは、自分の周りに起きる出来事に抗うことはせず、全てを受け入れて、淡々と生活を重ねていきます。
・となりのおじいさんにポチを殺されても抗議はせずに、お墓に植えられた木を育てます。
・木が大きくなるとそれで臼をつくり、お餅をつきます。
・となりのおじいさんが臼を割ってたきぎにしても抗議はせずに、灰をもらって帰ります。
・その灰が風に吹かれて枯れ木に花を咲かせることを知ると、お殿様のために灰を使います。

自分に訪れた不幸を、人のせいにしたり、天をうらんだりすることなく、自分にできる生き方で着実に、前に向かって生きていきます。となりのおじいさんにしいたげられているかのように見えますが、違う見方ができます。ポチを殺された悲しみを木を育てることで乗り切ります。また、貸した臼を燃やされても、灰を返してもらえればそれでよしとします。また、その灰をお殿様を喜ばせるために惜しげもなく使います。

正直という言葉には、正(まさ)にと言う漢字と、直(すなお)という漢字が並びます。正直とは、すなおな心をもつことなのでしょう。このおじいさん、まさに、すなお、です。人に恨みをもたず、悲しみは自身の心の中で解決していきます。そのような、芯の強い人間が正直な人間なのでしょう。それは、自分に満足しているから出てくるものだと思います。「足るを知る」という言葉もあります。ウソをつかないということは、そこから派生してくる行為なのだと思います。

このように見てくると、おじいさんの生き方に学ぶべき道徳的な視点があります。人が正直に生きることに、期待がもてます。

2005年11月 7日

浦島太郎

貧しくても誠実な暮らしをしていた太郎が、こっけいな人物として描かれている浦島太郎のお話はだれもがよく知っています。乙姫様は、どうしてそのような玉手箱をあげたのだろう。それはないだろうに。...ある学生さんのレポートでのつぶやきです。

そうですよね。太郎は乙姫様の大切な配下であるカメを助けたのです。ですのに、乙姫様は、太郎や太郎のお母さんを悲しませてしまいました。乙姫様は、なぜに、太郎にあのような玉手箱を持たせたのでしょうか。このことは、私も気になっていたことでした。今回の学生さんの指摘を機会に、再び、悩んでみました。

私は子どものころ、このお話を聞いて、乙姫様に悪感情をいだきませんでした。なぜなのでしょう。白雪姫に毒りんごを食べさせるおばあさんには嫌悪感をいだいたのに、太郎にあのような玉手箱を渡した乙姫様には同情的でした。乙姫様が、この箱は決して開けてはいけませんよ、と念をおしたとき、太郎は、わかりましたと、了承しました。その約束をたがえたために、太郎はおじいさんになって当然だと思っていたようです。その、子どものときの感覚に添って、考えを進めてみます。

太郎が竜宮城に行った時、あまりの楽しさに家のことを忘れてしまいました。貧しくても母を助けて誠実に生きることに価値観を抱いていたはずなのに、きらびやかな生活を目の当たりにするとそのなかで面白おかしく生きていくことに魅力を感じたのです。しかし、それが長引くと、良心がうずき始めました。夢のような生活は、結局は落ち着くところではなかったのです。

しかし、感傷的に現実の世界に戻りたいと思っても、一度、放蕩生活の楽しさを知った者には、自分を今まで以上に厳しく戒める自戒の念が必要になります。気にそわないことをがまんする力やいやなことに耐える力が弱くなってきているからです。それで、かつての誠実な生き方を取りもどさせるために、乙姫様は「開けてはいけない」という「玉手箱」を渡したのではないでしょうか。太郎が、「開けたい」「いや、開けてはいけない」という葛藤に苦しむ中で、現実の中で生きていける誠実さを取り戻していけると考えたのでしょう。

それがかなわぬ時、太郎は現実の中でも「飲めや歌えや」を要求することになるでしょう。それでは、かわいそうですが、太郎は社会の中で「つまはじき者」になってしまいます。もしかしたら、罪を犯すことになるかもしれません。乙姫様は太郎がそうなってしまうことが忍びなかったのでしょう。太郎が老人になれば、「飲めや歌えや」の我欲はおさえられるでしょう。だから、太郎にはふびんですが、太郎が誠実さを取り戻せなかった時、玉手箱に、太郎が老人になるべくの仕掛けをしたのだと思います。そうすれば、太郎は、太郎なりに人に迷惑をかけることなく生きていくことができます。

では、なぜ、乙姫様は、太郎を、お礼にと竜宮城に招待したのでしょう。それは、乙姫様の生活感覚は、太郎のそれとは違っていたということでしょうか。乙姫様は、太郎に、自分のできる最大の御もてなしをしたいと思ったのでしょう。しかし、それは、太郎にとっては、過重負担だったのです。最近、お礼で一億円を渡したというニュースがありました。そして、そんなことは覚えていないよ、小さなことだよと、歯牙にもかけない世界もあることを知りました。いやはや、お礼というものも、分相応に受け取るべきなのでしょう。

現実の世界に、平々凡々と生きていくことが、いかに貴重なことであり、取り返しのつかないものであるか。太郎の行動を言い伝えてきた人々は、そのことの価値を再認識しつつ、人生の生々流転のなかにある、現実逃避の希望や諦めを笑い飛ばしてきたのかもしれません。

2006年2月14日

日本家庭教育学会大分支部研究会

2月11日、大分県別府市で、日本家庭教育学会大分支部研究会が開かれました。八洲学園大学から学長の高橋先生、中田先生、厳先生と、わたしの4名が参加しました。家庭教育力を育てる家庭教育・道徳教育の在り方がテーマでした。日本家庭教育学会の大分支部には、永年にわたって大分県の道徳教育を推進してきた人たちが参集しています。この日も、教育界で活躍している人、さらには現役を引退して地域で活躍している人たちが30名ほど集まってくださいました。

まずは、この結束力に頭が下がりました。近年の家庭教育を批判する人はたくさんいます。しかし、多くの人と手を携え、自分たちで前に進もうとするとする人たちはなかなかいません。この日は、その人たちに久々にお会いできて、とてもうれしかったです。
 
学長からは、子どもの教育を学校だけに任せてすむ時代ではなくなり、家庭や地域で子どもの教育にかかわらねばならなくなったこと、そこに、八洲学園大学が家庭教育にかかわる人材を育成する大学として誕生したことが話されました。

従来、学校で子どもにおこなう教育の方法を教える大学はあっても、家庭や地域で子どもにおこなう教育を教える大学はなかったのです。

八洲学園大学では家庭教育アドバイザーを育成するためのカリキュラムが組まれています。そのカリキュラムで「家庭教育学」を修めると、学会が家庭教育師として認定することになりました。

「家庭教育学」とは、今までにないジャンルです。それを、どのようにして修得するかが話題となりました。それで、3人が受け持っている授業科目の実例をあげながら、学生が家庭教育学を修得していく過程を説明しました。

まず、わたしは家庭にいる人に、学校教育のねらいや小中学校の先生方の教育姿勢を解説することで学校の先生への理解が進み、それが家庭の教育力になることを話しました。

中田先生は家庭にいる人に文学の味わい方を解説することで、家庭の中に豊かな教養が満ち、それが家庭の教育力になることを話しました。

厳先生は有史以来人々が積み上げてきた東洋思想の源流を家庭にいる人に解説することで、家庭にいる人に何を善しとするのかの価値判断の基準が備わるようになり、それが家庭の教育力になることを話しました。

教員はそれぞれの専門分野から発信します。学生はそれらを受信して集大成していくことで、家庭教育アドバイザーとしての資質を磨いていくのです。さらには、学会認定の家庭教育師として社会で活躍できていくことでしょう。

教育は、教育にかかわろうとする人の自覚から始まります。この研究会も、会員の熱心な意見が交わされました。家庭教育師への理解も深めていただきました。そして、家庭教育師として活動したいという心強いご意見もいただきました。

学会の家庭教育師資格細則には、大学で家庭教育学を修めた人の他、教員として30年以上勤めた人にはその専門性に鑑み10単位の履修で申請できるという恩典や、永年、家庭教育の向上に携わって社会貢献をしてきた人、永年、日本家庭教育学会の活動を熱心におこなってきた人にはその実績をもって申請する資格があると明記されています。

多くの人が家庭教育師へ手を上げていただけそうでした。近いうちに、それをかたちにしていく一歩を踏み出すことになります。ありがとうございました。

2006年3月24日

家族生き生きエッセー

「家族のいい話」をテーマにしたエッセーを公募していましたが、その作品集を発行しました。
第一分野:親の思い、第二分野:子どもの思い、第3分野:親と子の思い、で構成されています。
インターネットでも公開しています。
『家族生き生きエッセー』
今回のエッセーでは、節度、明朗、反省、希望、努力、勇気、誠実、個性、思いやり、協力、尊敬、感謝、信頼、進取、の心が明らかにされています。詳しくは、上記ホームページの「学ぶ」でごらんください。

2006年5月23日

道徳とは何か 節度 思慮

道徳とは何なのでしょう。人は、このようにあらねばならないとする枠をつくることでしょうか。わたしは、どうも違うような気がしてなりません。その昔、道徳は、混沌とした時代を切り開き、生きることに夢を与えるために創造されたのだという気がしています。その視点に立って、道徳の価値を誰でもがわかり、それを、自らの人生の応援と成していけるようなことはできないだろうかと、ここ数ヶ月悩んできました。そして、ある思いに至りました。それは道徳の価値内容を示す言葉を、日常生活の中に登場させることです。

道徳の内容を示す言葉とは、正直、勇気、誠実、責任...等々の言葉です。現在、これらの言葉は、人を叱る時に使われることが多い気がします。それによって、それらの言葉のもつ価値を矮小化させているのではないかと思います。本来は、正直に生きるとはどういうことか、勇気をもつとはどういうことかというように、よりよく生きる方向性を探し求めようとするものであったはずです。

そこで、日常生活の中でそれらの言葉を目に触れさせ、そのことについての会話ができる機会をつくりたいと考えました。その道具として、トランプカードに、道徳の内容を仕込んだカードをつくることにしました。トランプのカードとして遊びながら、人生を豊かに生きるための言葉が目に入ることによって、叱るときにつかっていた道徳を、前向きにつかっていくことができると考えたのです。

名付けて、「人生を応援する道徳カード」。
各家庭で、あるいは学校の教室で、人生や道徳のこととが話題になれば一歩前進できます。

そして、そのカードができました。スペード13枚、ハート13枚、ダイヤ13枚、クラブ13枚、ジョーカー1枚で、全部で53枚になります。
スペードは、自分自身にかかわる道徳、ハートは他の人にかかわる道徳、ダイヤは自然や生命にかかわる道徳、クラブは社会にかかわる道徳で構成されています。
ただ今、モニターを募集しています。実際に使って、試してみませんか。

これから、少し、紹介していくことにします。

スペードのAは節度です。
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スペードの2は思慮です。
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どちらとも、「けじめをつけなさい」「反省をしなさい」等、人を叱る時に使われやすい言葉ですが、でも、前向きに生きる道を示す意味もあると思います。

節度とは何でしょう。生活を節(せつ)に区切ってみると何かが見えてきます。季節もそうです。一年を3ヶ月という節で分けると、季節ができました。季節があるから、春の楽しみ方、夏の暮らし方などのイメージができます。他の生活もそうなのです。学校と家庭とに区切ることで、学校の生活はどうすればよいか、家庭ではどうすればよいかがわかります。学校でも、勉強時間と遊び時間を区切ることで、勉強時間にはどうすればよいかがわかってきます。人の生活を節で区切ってみることによって自分のあり方が見えてくるはずです。

思慮とは、よく考えることです。考えることは、飛躍の一歩手前です。反省する力があることは、人としてとても素晴らしいことです。今の時代、デジタル思考ですぐに結果を求め、勝ち負けを決めたくなりがちです。しかし、それが、「キレル」という現象を生み出しているのだと思います。古代中国の考え方に、「四道五動」というのがあることを知りました。前に進む、後ろに下がる、右に曲がる、左に曲がる、というように、人生の岐路では四つの選択肢に悩むことがあります。その中で、五番目の動きがあるというのです。じっとしていることです。じっとしていて、よく考える、それが、効を奏すことが多いのだそうです。考えるということは、心を動かすということです。思慮もなかなかの力を見せてくれそうです。

2006年5月24日

努力とは何か

努力について、次のカードを作りました。
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努力とは大切なことです。しかし、あまりに努力が強要されると、事態は思わぬ方向に向いてしまいます。夜のニュースで、某ニュースキャスターが嘆いていました。社会保険事務所が、法律の規定に反し、本人の申請なしに、国民年金保険料の免除や猶予手続きをとっていたとか。それが、全国で数万人に及ぶと。未納率を減らし、納付率を向上するための一環だとか。

...国民年金保険料の納付率を向上させようと努力をする。それは貴いことです。しかし、その努力が何のために行われているかを自覚していないと、結果のみを求めることに関心が行き、ついにはこのように嘆かわしいことになってしまうのではないでしょうか。

近年の子どもたちもみても、結果を求められていることが多いような気がします。努力に結果はセットされているものではありません。人は結果を目標に努力はしますが、結果を求めて汗を流している姿こそが貴い行為です。はつらつとして毎日を過ごすことができます。それが、何よりのはずです。その中から、未来への希望や夢を感じとれていくはずです。

子どもにいろいろな結果を求め続けると、それがかえって子どもの自信喪失につながらないとも限りません。がんばっている姿こそが貴いことを、子どもに伝えて欲しいと思いました。「いい汗をかいているよ。」「何かに取り組んでいるときの目って、とても素敵だよ。」「そういう姿を見ていると、何だか、元気がわいてくる。」「だから、がんばることは、いいことなんだ。」「がんばることは、生きていることの証明をすることかな。」
困難であることに向かう姿勢が、自分をつくってくれています。

近年は、子どもの努力が親の価値観のもとにできているような気もします。親が、子どもに、このようなことをがんばらせたいと思うことで、子どもの目標を設定するというものです。それも、ある程度までは必要でしょう。しかし、そこには、親の、大人のしての論理があります。...それができるようになると、将来のためになるよと。だから、できないと困るし、できないと、評価をもらえないのでしょう。子どもが、自分自身で、困難な目標を抱いたのであれが、努力の結果、その目標は実現できなくても、そこに向かっていった自分を将来にわたって誇れるはずです。

数年前、東京の科学技術館に行ったことがあります。そこで、ホーバークラフトの工作の実演があり、実際にできたものを動かしていました。ホーバークラフトとは、地面や水面の上を浮かんで動く乗り物です。その、工作されたものが、右に左にと動く様を見て、わたしは感慨ひとしおでした。なぜか、それは、わたしが子どものころ、何度も挑戦しては失敗していた工作物だったからです。見ると、発砲スチロールで軽い機体を作り、小型化されたモーターと電池が使用されていました。わたしの子どもの時代には、無かった物です。当時は、木材を薄く削り、プロペラの角度や大きさを工夫して、動力としては当時市販されていたモーターや電池を使うしかありませんでした。かなうはずもないことに向けての、挑戦の日々だったのです。しかし、その挑戦は、今でも、心地よいものとして残っています。そこに、努力の意味があるのだろうと思います。

2006年5月31日

野口英世

道徳カードスペードの4は、忍耐にしました。
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このごろ、こらえ性のない人が増えました。わたしもです。道を歩いていて、前から歩いて来る人がいたのでぶつかるなと思ってよけました。でも、相手がそのまま堂々と通り過ぎたので、その態度に、少しムカッときてしまいました。相手がこちらに斟酌(しんしゃく)してくれなかったことにがまんができなく、自分で不機嫌さをつくり出してしまったのです。小さなことなのにがまんができないとは...、どうしましょう。

先般、小泉総理大臣のアフリカ訪問がテレビで報じられていました。かつて、アフリカの地で黄熱病の研究をしていた野口英世の研究室がそのままになっていて、そこに行くと、壁に、「忍耐」という文字の額が掲げられていました。小泉総理大臣は英世の偉業と忍耐という言葉を重ね、いたく感心をされていました。

がまんができるのは、小さなことにはとらわれないからなのでしょう。大きなことに視点を移せば、小さなとらわれも姿を消します。常に大きな視野をもち、そして、はるかな展望を抱いて生活することで、心おだやかな日々が訪れます。忍耐は、その一環でしょう。と、自分を反省するのでした。

2007年2月 4日

道徳カード完成 

道徳カード完成 

毎日を元気にすごしたいですね。
そのための言葉があります。
「努力」「勇気」「礼儀」「友情」「思いやり」「自然」「協力」「平等」等など...。
これらは道徳の内容を示す言葉です。道徳は、迷っている自分を前に押し、前向きに生きようとする力を与えてくれます。

人には...
元気を出そうとしても元気を出せないときがあります。
毎日がんばっているのに、からまわりして、自信を失うときもあります。
仲のよい友達とけんかをしてしまって苦しい思いをするときもあります。
そのようなとき、道徳の言葉に価値(大切なもの)を見出せると、自分を前向きにしていくことができます。

そこで、日ごろから道徳の言葉に親しめるよう、トランプやカルタ、絵合わせとして遊ぶことができるカードを作成していましたが、ついに完成しました。以下が、全体像です。

♠A 節度  ♠2 思慮  ♠3 努力  ♠4 忍耐  ♠5 自由   ♠6 誠実  ♠7 正義  ♠8 勇気  ♠9 正直  ♠10明朗  ♠J 進取  ♠Q 工夫  ♠K 個性

♥A 礼儀  ♥2 同情  ♥3 思いやり  ♥4 親切  ♥5 信頼  ♥6 友情  ♥7 忠告  ♥8 男女の仲  ♥9 謙虚  ♥10広い心  ♥J 寛容  ♥Q 尊敬  ♥K 感謝
  
◆A 自然  ◆2 植物  ◆3 動物  ◆4 環境  ◆5 元気  ◆6 健やか  ◆7 生命  ◆8 一生けん命  ◆9 生き生き  ◆10自然の美  ◆J 心の美  ◆Q 情操  ◆K 感動  

♣A 協力  ♣2 責任  ♣3 公徳  ♣4 きまり  ♣5 義務  ♣6 平等  ♣7 働くこと  ♣8 奉仕  ♣9 家族  ♣10学校  ♣J ふるさと  ♣Q 日本  ♣K 国際親善

Joker  失礼します

♠は、自分のあり方を大切に思うことで、自分をよりよくしていく考え方です。
♥は、他の人のことを大切に思うことで、自分をよりよくしていく考え方です。
◆は、自然や命のことを大切に思うことで、自分をよりよくしていく考え方です。
♣は、みんなとのかかわりを大切に思うことで、自分をよりよくしていく考え方です。

それぞれのカードは、道徳の内容を示す言葉ごとに、トランプと絵札が対になっています。

道徳の言葉に親しむことで、いろいろな考え方ができるようになります。

2007年9月21日

「自由」という名の道徳

 今回は「わたしの自由」についてのお知らせです。


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                    『人生を応援する道徳カード』より

 自由という言葉には、魅力がありますね。今までの人生で、自由という言葉に何度あこがれたことでしょう。休みの日が近づくとなぜか心が浮き浮きするのも、その一環でしょう。

 9月15日・16日・17日は、土日月と、敬老の日という国民の祝日がらみでお休みが三つ続きました。今度の土日月も、秋分の日がらみで三連休です。そして、翌々週も、土日月が体育の日がらみで三連休です。さらには、その間にある土日月も、東京都の人にとっては10月1日(月)が都民の日で祝日となり、都立高校、公立の小中学校がお休みとなります。子どもたちは三連休となります。一ヶ月の間に三連休が飛び石で3回、もしくは、連続で4回...う~ん。こうなると、休みは自由でいい、とばかりもいえなくなります。自由に価値を求めたいですね。

 わたしは、15日・16日・17日はどのようにすべきか...悩みました。そして、決めました。15日は山本周五郎の小説を読む。16日は生垣の剪定。17日は原稿。...このところ出張で忙しく、山本周五郎の小説を買ったものの読めないでいました。それから、先ごろの台風で伸び過ぎていた生垣は風をまともに受けて大揺れでした。書きたい原稿もたまっています。いずれも、自由と言いつつ、必要に迫られたものでした。これが果たして自由といえるのか、単なる、たまっていることの消化ではないのか...。そうは思ったものの、まあ、とにかく、そのようにすることにしたのでした。

 さて、その結果です。一日目。小説の題は「花莚」。何度か、涙ぐんでしまいました。理不尽な仕打ちのなかで懸命に生きようとする主人公の姿は、辛いことの中にすがすがしさを味わわせてくれました。辛いことは、人生においては、自分自身の生き方を転換させていく大きな力となる...そんなことを考えつつ、話の世界に浸っていたのでした。二日目は照りつける太陽の下で、はさみでチョッキンチョッキンと、伸び過ぎていた枝を切っていきました。最初は少しだけ切りそろえたのですが、だんだん大胆になって、鋸も登場してきて枝を切ったり、根元から引き抜いて空間をつくったり...と、作業は次々と大掛かりになりました。さらには、生垣のそばの杭にアリが食い込んでいるのを見つけました。シロアリでしょう。杭を掘り起こし、すべての杭と塀を取り替えることに...。結局、夕方になってタイムオーバー。そして、三日目もそれを続けることになり、わたしの、三連休は終わったのでした。

 自由の意味とは、何でしょう。自分でこのようなことをしたいと思うのは、必然性があるからです。したいことだ、しなければならないことだ...と。それは、見方を変えると自分に縛られていることで、自分に拘束されているとも言えるでしょう。しかし、実際に自分でそれをしていくと、その過程で楽しさや充足感を味わうのです。大変なことではあっても苦痛ではありません。
同じように、したいこと、しなければならないことを、他の人からするように指示をされたのでは、意欲は半減してしまいます。わたしの生垣の剪定も、頼まれてしたのであれば、「こんな暑い時に...」と、不満が出てきたことでしょう。

 自由は、楽しさを生み出す力を授けてくれます。

 さて、今度の三連休は、外に出かけることにしました。土曜日は、「論語を読んで教育を語る会」の例会です。月曜日は、友人を誘い、彼岸花の写真を撮りに行くことにしました。神奈川県伊勢原市の日向。その谷間の日曜日は、原稿書きに精を出すことにします。これが、明日から始まる三連休にある、「わたしの自由」です。

2007年10月 4日

「誠実」という名の道徳

今回は「わたしの誠実」についてのお知らせです。
『角川新字源』には、誠とは、「自分の言葉をかたく守ってたがえない「まこと」の意を表す」と、されています。誠実とは、「言(げん)を成(な)し、それを実(まこと)にする」という意味でしょうか。言葉は、自分の気持ちを打ち出したものです。自分の気持ちを、まずはっきりとさせる。そうすると、自分のなすべきことが自然と明らかになり、迷わずに遂行していくことができる。愚直という見方もあるけれど、それによって得られる精神的な豊かさが、その人の人間性を培っていくのでしょう。

そういえば、山本周五郎の『ちくしょう谷』の中に、次のくだりがありました。
「肝心なことは、と老人が云った。事が失敗するかしないかではなく、現に貴方がそれをなすっている、ということです。」


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8月の終わりに、近くの医院で健康診断をしてもらいました。そこで、わたしの体がとんでもないことになっていることが判明しました。血圧が155の132だというのです。しかも、体重がドカンと増加している...。そんなあ...。体中に脂肪が付き、それが血管を圧迫しているのです。これはいかん、と思いました。体の動きが鈍いわけです。これでは、早晩、体が行き着いてしまいます。

そこで、どうしたらよいかを考えました。そして、早朝30分のウォーキングをすることに決めました。朝、6時のスタートです。それを今日まで、一ヶ月続けています。

東京でも、朝の空気はおいしいことに気づきました。また、歩きながら、ねむの木の可憐な花、ハナミズキの赤い実などを見かけては、季節の移りかわりを楽しむことも覚えました。川の流れは、高ぶる気持ちを静めてくれます。自然の恵みです。

 このウォーキングは、精神的なゆとりをもたらしてくれました。半そで・半ズボン・ツッカケで始めた身なりも、長袖・長ズボン・スニーカー・野球帽で、手にはストップウォッチと、次第に本格化しつつあります。

 今朝の体重でみると、当初より4.8㎏の減量になっています。三日前、歯医者さんに行ったときに血圧を測ってもらったら、132の95でした。何よりも、すがすがしい毎日が始められるようになりました。


2007年10月15日

「正義」という名の道徳

今回は、「わたしの正義」についてです。
かつて、子どものころ、正義は単純に考えていました。考える道筋を知らずとも、正義の味方...月光仮面、正しい事をやりとおす...赤胴鈴之介、というように、正義は感覚の世界で瞬時に描けるものだったのです。しかし、正義とはそのように一面的な見方で存在するものではないことを、成長するにしたがって、知っていくことになりました。自分がいくら正しいと主張しても、人はそのようには思わないこともあるのでした。正義とは、それぞれの、自分の内にあるようです。

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歩行者の信号は赤、でも、車は見えない。さて、どうする。信号が青に変わるのを待つか。それとも、赤信号でも渡ってしまうか。正しさは、身近なところでも試されています。


あれは、大学の部活動でのことでした。3年生の時、部の役員として部員たちのためによかれと思ってしたことが、現役を退いた4年生の旧役員の人たちに批判されてしまったことがありました。4年生は息巻いていて、3年生のわたしは立つ拠りどころを失い、さびしさに打ちひしがれました。そして、自分の思う「正しさ」にこだわり続けると、周りは離れて行くことを知ったのでした。部は辞めざるを得ませんでした。何が、正しいことなのかは、それぞれの経験の度合いによっても異なるように思いました。

今よりもずっと若い、小学校の教員であった頃のことです。冬休みが終わった1月の職員会議で、年配の先生が、全校の子どもたちの「お年玉」の調査をしようと提案をしたことがありました。子どもたちが、お年玉としてもらった金額を調べようというものです。年々、高額になっていく子どもたちのお年玉の金額の動向を調べ、その結果を保護者に知らせて、各家庭で、お年玉が過剰にならないように働きかけたいとの趣旨でした。それにも一理あります。しかし、わたしは、反対したのでした。お年玉を少ししかもらえなかった子ども、あるいは、全然もらえなかった子どももいるだろう、そのような子どもは、さびしい思いをしてしまうのではないか。いくら、過剰になりすぎたお年玉の弊害をなくすとはいえ、そのことによって、さびしい子どもをつくってしまったら、元も子もないではないか。だから、そのような調査は、学校でするべきではないと、主張したのでした。結局、各学級の判断で、するしないを決めるということになりました。そのお年玉調査を提案した先生は、ある団体の委員で、全県的なお年玉調査の依頼を受けていたとのことでした。何が正しいことなのかは、それぞれが背負っている職責によっても異なるように思いました。

自分の内に宿る正義を、他の人との競合のなかで、自分の人間性を磨く起点とするかどうかは、自分しだいのようです。最近、ある会合で、自分の主張が退けられた時、明智光秀の心境がわかるなあ...と、ぶっそうなことを考えてしまうことがありました。まだまだ、修行が足りないようです。

2007年11月21日

「勇気」という名の道徳

わたしにとっての勇気とは何か...と、ずっと考えてきました。会議の席で自分の考えを強く主張したり、電車の中で迷惑な行為をしている人を注意したりと、自分の考えや行動を他の人に強く押し出すことは、勇気とは言えないのではないかという感覚があったので、悩んだのでした。勇気は人に向かって出すものではなく、自分自身に向かって出すものだと思うのです。人に向かって出す時には、人の気持ちと争うことになります。それは、自分を猛々しくすることで、簡単にできます。気合を入れればできるのです。しかし、勇気とは、ずれていくような気がしていました。豪腕者・乱暴者との差異がつかなくなってしまいます。
わたしは9月からウォーキングを始めました。2ヶ月たった今月の初め、それをジョギングに変えたくなりました。身が軽くなったこと、体力がついてきたことの自信がそうさせたのでしょう。これが、わたしの勇気だとも思いました。そして、思い切って、ジョギングに挑戦してみました。さすがに、一歩目を踏み出すのには気合が必要でした。5分走って5分の歩き、それを3回繰り返すことから始めました。日にちを重ねるにしたがって、繰り返す回数を増やしたくなりました。そして、一週間後には30分間を快適に走り続けることができるようになったのでした。だんだん、スピードを出すことに快適さを感じるようにもなっていきました。ところが、走っている最中に、ふくらはぎに激痛が走りました。しかし、大丈夫だろうと、1時間ほど走り続けましたが、家に帰ると、足が上がらないほどになっていました。インターネットで症状を調べると、どうやら「肉ばなれ」のようです。ガックリでした。ウォーキングをジョギングに変えたことは、勇気ある行動とはならなかったのでした。自分の「走ってみたい」という欲望に負けただけにしか過ぎなかったのです。一週間後、痛みがひいたので、ウォーキングにもどしました。これが、自分の分に合っているようです。わたしの勇気探しは、続きました。
そして、先日、気づいたのです。横浜駅から、大学に行くまでの歩道にたくさん煙草の吸殻が落ちているのを。これは、最近、駅前の広場が禁煙になったことの影響でしょう。駅前で吸っていた愛煙家(愛という字が泣くなあ...)が、歩道を歩きながら吸うようになったのだと思います。この吸殻群を見て、この吸殻を拾うことはできるだろうかと自問自答してみました。歩道にまき散らされた吸殻に眉をひそめるばかりではなくて、これを拾うことはいいことではあります。しかし、大変なことです。いや、簡単なことです。立ち止まって、少しかがんで、手を伸ばせばいいのですから。いや、大変です。自分の気持ちの中にそれをさえぎらせるものがあります。...これを克服するのが、わたしの勇気ではないか...その思いも広がりました。
それから、5日目の昨日、とうとう、立ち止まり、かがんで、素手で、吸殻を拾ったのです。カバンを肩にかけ、右手で吸殻を拾って、左手の掌にそれを置きました。紙の温かい感触が伝ってきました。そして、掌に、次々と吸殻を収めていきました。ついには、両手いっぱいになりました。それを抱えて、大学の中に入りました。心は、温かでした。

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2009年1月27日

心を育てる本 発刊記念 進呈のご案内

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子どもの心を育てることは、なかなかに難しいことです。辛いことやいやなことからは逃げ出したくなります。善意を傷つけられたときには、反発を覚えます。そのような自分を暗くする感情を整理して明るく生きるには、ものの見方が豊かであることが必要ですが、これがなかなか...手ごわいのです。
それは、大人も同じですね。でも、大人は子どもより心の幅が広いです。それで、大人が生きることに価値を見出せると、困難なことにおちいってもそれに耐えて立ちあがろうとする強さや、他人の主張にわがままなところがあってもそれを受け入れていく心の広さ、また、まわりの人々と力を合わせて生きる喜びをつくりあげていく前向きさ等の、心の働きを子どもに説明できるはずです。
そこで、子どもにも大人にもよく知られている日本昔話やイソップ話で、登場人物の言動をもとにして、生きることの価値を明らかにしてみました。それが、次の本です。
『昔話と52のキーワードで学ぶ道徳の心』(学事出版・2009年1月発行・本体価格1500円)
 この本は、八洲学園大学の「道徳心の育成」という授業科目で生まれたものです。
 本書の発刊を記念して、先着50名様に、無料で進呈いたします。
 希望者は、以下の住所まで、封書に、送料「切手290円」を同封してお申し込み下さい。

   220-0021  横浜市西区桜木町7-42 八洲学園大学 渡邉達生

 尚、本の目次は、以下の通りです。

第一章 イソップ話で心をみがく
  1 勝ち組になるのを求めるのではなく、自分を高める楽しさを求める
    『うさぎと かめ』
    圧倒的に非力なかめが、どうしてがんばれたか...克己ということ
 
  2 相手を安心させられることで忠告は成り立つ
    『北風と太陽』
    太陽の心の大きさはどこから出てきたか...忠告ということ

  3 働くことは、自分を前に進めるはず
    『ありと きりぎりす』
    一生けんめい働いたありは幸せだったか...働くということ

  4 生きる喜びが、自分の進む道を照らす
    『金のおの ぎんのおの』
    正直なきこりは金のおのをもらえたからよいのか...正直ということ

第二章 日本昔話で心をみがく
  1 他の人に生かされて、自分の個性が光る
     『ももたろう』
    いぬ・さる・きじは、どうして仲良くなれたか...協力ということ

  2 苦しみを越えて、美しく生きる
     『花咲か じいさん』
    恨(うら)みを超える美学はどうしてできたか...美しい心ということ

  3 人を愛する気持ちが、絶望の中から立ち上がる力を生む
     『かさこ じぞう』
    悲しさはどうして幸せに転化したか...誠実ということ

第三章 お話の主人公へ手紙を書いて心をひらく
  1 人を許すと、幸せになれる
     『さるかに がっせん』
    うれしいことの始まりは、人と一緒にいることだった...寛容ということ

  2 不安をもとにして、たくましく生きる
     『一寸ぼうし』
    人生を切り拓く強い心はどのようにして生まれたか...進取ということ

  3 心の原点をたずねて、自分を知る
     『いなかのねずみと まちのねずみ』
    自分の感性はどこでどのようにしてできたか...郷土を愛するということ

2009年8月17日

家庭>道徳>子育て>心の教育>自由


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小学生の子どもさんがいる家庭では、夏休みの自由研究に取り組んでいるところもあるでしょう。自由研究...。うれしいような、困ったような...。「自由」とは、複雑な心の動きを起こします。自由というと、束縛から解放され、それによって楽しさが生じることをイメージします。しかし、研究という束縛から解放されるのが自由だとすると、それでは研究そのものがなくなってしまいます。自由とは何でしょう。どのような状態を自由といえばよいのでしょう。
 自由とは、漢字の並びからして、自分の心に由ると考えられます。心のままに...ということでしょう。しかし、この、心のままにということが、難解です。

 昨日まで、富士五湖の一つ、山中湖のほとりにある、とある研修所で、二泊三日の研修会がありました。昨日の最終日の朝食は八時に終わり、研修は九時から始まるということでした。一時間の休憩時間があります。ところが、その休憩時間に同室の人が富士山の写真を撮りに出かけるというのです。彼はこの時間帯に富士山の撮影をしたいという自由意志を働かせています。わたしは、前夜遅くまでのミーティングの疲れが残っていてボーッとしていたかったのですが、その生き生きしている姿に自分の気だるさを言うわけにもいかずに、しぶしぶ一緒に行くことにしました。そのときの、わたしの心は、しぶしぶです。 
 ところが、富士山の見える場所に着いて、その人がいそいそと三脚を設定し、カメラをのぞいている姿を見ているうちに、心が変わってきました。その写真を撮っている姿を、写真に撮りたくなったのです。携帯電話に付いているカメラですから限界があります。しかし、何とか挑戦してみたいと、富士山らしさの見える場所を歩きまわりました。そして、近景に月見草、中景に山中湖、遠景に富士山の構図を見つけ、そして、その中に彼の姿を収めて、パチリ。この瞬間、わたしの心は、満ち足りた思いになっていました。自分の心を表現することができて、自由であることの心地よさを感じています。彼が、写真を撮りに行くと言わなければ、至ることができなかった心境でした。
 自由ということは、心のままにということですが、その、心のままにということは、「怠惰な気持ち」に従っていたのでは、自由が本来意図している自身の心の高まりに到達することはできないのです。自分を高めた楽しさに気づくことが自由のよさなのでしょう。子どもの自由研究には、それを知る道が用意されている...。
 目の前の雄大な富士山が、心を押し広げてくれたのでした。

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